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2016年8月19日

『源氏物語』の〈方法〉と 向かい合う姿勢が底流に 


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本書は1970年代から『源氏物語』論を牽引してきた筆者による総論であり、形としては「〈研究〉と〈小説〉と〈批評〉とが組み合わされている」(〔はしがき〕)が、底流にあるのは『源氏物語』の〈方法〉と向かいあう姿勢であるにほかならない。なかでも「構造主義のかなた」を見通すための梃子となる部分は「源氏物語の分析批評」(十一)だ。「ここ四十年の研究史を、前史を含めて、振り返っておく…」との端書。そして1970年代に小西甚一の「分析批評」が、初期〈物語研究会〉に与えた影響について、「近代主義」的な読者論的な視座の有効性とその限界から整理する。小西の「分析批評」については、ロラン・バルトのいわゆる「作者の死」との連接において、「旧来の作者絶対観に対し、一定の破壊性」を有したことを評価する。そのいっぽうで、「作者の意図」の代補としての「テクストじたいの意志」を読み取ろうとする点については、「読者に権威が与えられ、「どう読むか」に、高い位置を認められるようになる」ことに疑義をはさむ。いわく「読者の読みに任せるということでは、作者対読者という、フレームワークをほんとうには壊しきったことにならず、依然として近代的な読者が温存されたままなのではなかろうか。」。そしてその意味では、「バルト氏の批評活動もまた過渡的な、近代主義の一環にあると見ることが許されよう。」と筆者は言う。この批判は、1980年代から隆盛となる「テクスト論」以降の方法的展開に向けてのものであることは言うまでもない。その点での歯止めを、ジュリア・クリステヴァの「記号学的」「構造主義的批評」に求めようとする著者の思考は、現時点でも有効のように評者は思う。クリステヴァの言う〈複数の作者〉(そのかなたに、筆者が玉上琢彌の〈物語音読論〉を透かし見ているようであるのは留意される)に対して、そこでのsubject〈主体〉がフロイト的な〈語る主体〉と接すること、それゆえにその〈主体〉から〈主題〉を切り離すことへの疑問をも提示して興味深い。クリステヴァの〈複数の作者〉の問題は、間テクスト性=〈インターテクスチュアリティ〉の方法にかかることであるが、それはまさに『源氏物語』の第三部・宇治の物語に方法化されていることであるからだ。筆者はその行論において、かつての評者の若書きを引きながら、「物語の規制のコードをうらぎる〈負〉の時間を生きる語る主体、書く主体だけがよくする行動するインターテクスチュアルを、『源氏物語』は、ついで『狭衣物語』は、自らの行動の最新の根拠とする」とする。

筆者のそうした整理に導かれて、あらためて問うてみよう――『源氏物語』第三部・宇治の物語とは何であったか。複数化された〈語る主体〉と、複数化された〈語られる主題〉(王権・愛・宗教etc)が、まさに自動記述的に熱を帯びたエクリチュールのただなかで、固定化されたあらゆる構造を壊し続け、そしてさらに未だ見ぬあらたな次元の構造を欲望し続ける、実験的な言語状況にほかならないのではなかったか。

本書の掉尾を飾る「構造主義のかなたへ(講義録)」(十五)に示されるとおり、構造主義のもたらした知の枠組み、〈精神分析学〉〈文化人類学〉〈言語学〉に沿って、今日までの筆者の歩みはある。とりわけ最近は〈言語学〉の範疇での思考(『文法的詩学』『文法的詩学その動態』)に独自の視野を拓いて注目される。いわば「時枝言語学」の問いなおしでもあるその取り組みもまた、本書を貫く、方法のかなたを見据えてやまない温故知新的な強固な視座の表れとして重く受け止めたい。
2016年8月19日 新聞掲載(第3153号)
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