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読書人紙面掲載 書評
2016年8月26日

かき消される当事者の声 自らの障害者としての感覚から鋭い指摘を投げかける 


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著者は、これまでの著書において、絶えず社会に存在する社会的弱者に対する「統合と排除」に関して、自らの障害者としての感覚から鋭い指摘を投げかけている。例えば、『魂のゆくえ』では、それらを「複合的差別構造」と「切断」と称し、「第二のレトリックのパラドックス」の解消が「困難なヤッカイなもの」と記している。障害者施設職員だった評者には、この指摘は心に突き刺さるものがある。

戦後、わが国の障害者福祉施策では、施設を増設することが、家族、社会にとって望ましいことであると信じられ推進されてきた。しかし、1950年代にデンマークで始まったノーマライゼーションは、障害当事者が自らの生活の在り方を決めることを施策の主眼とし、欧米に広まった。この運動の存在は、わが国にも届いていたはずであろうが、ほとんど受容されることはなかった。当事者の声はかき消され、結局今日に至っても同様である。さらに福祉の本質を検証されることはなく、いわば当事者にとっては迷惑な施策が進められてきたのである。まさしく、そこには「困難なヤッカイなもの」が存在し続けているのである。(この書評を書いているときに、相模原市での障害者施設殺傷事件が起き、改めてこのことを痛感している。)

著者は多数の文献を取り上げ、「複合的差別構造」の根幹を見つめ続けている。例えば、第五章ではスティグマを押された自己と、それに関わらない捨象した本当の自分に分割し本当の自分というユートピアに自己意識の根拠を求め、その精神世界という閉域に立て籠ることを『内閉』と定義している。この『内閉』が、障害者福祉という障害者を支援するための行為において、実は多様な当事者性を隠し、偶像化された障害者を創り出す根本的な要因になっている。本書では、乙武洋匡氏が「肉体=身体」を「気持ち悪い」と言う「他者」の「まなざし」から自分自身を取り戻すために必要であると記している。私には、このことが、先日来、彼の私生活がマスコミを騒がせた一因を予期していたようにも思える。

同時に、多くの研究者も取り上げるE・ゴフマン、M・フーコーについても言及し、ここでも著者の独自の視点が展開され、西洋社会の心理の産出における「告白」から個人と権力の関係性を「臣下(服従者)=主体」とし、フーコーの「牧人=司祭型権力」と同一であると述べている。この指摘も、今日の障害者福祉に不可欠な視点であり、今後の方向性を暗示している。障害者福祉が目指す理想を表すノーマライゼーション(normalization)やインテグレーション(integration)は、障害の有無に関わらず、対等な関係性を保持した社会の構築を意味するが、それが法・制度で実現しないことは誰もが認識している。著者は、そのことについて自らの気づきを暗示するかのように「まなざしの地獄」から逃れるために、自己の「肉体=身体」を消すことによって、「私たちは誰からも抵抗なく受け入れられる存在になる」と記している。私には、この記述が、著者自らの気づきを意味するかのように思え、「心の叫び」が聞こえたように思える。

最後に、本書のあとがきについても触れざるを得ないであろう。大江健三郎氏に対する記述は、本書の内容と同様の視点が続き、深く愛した母の存在と死の体験から鋭い批判を行っている。大江氏が、障害児の父親としての当惑を作家として記述する行為の経緯において、著者には許容できない言説に憤りを感じたのであろうが、同時に深い悲しさえも感じさせる。
2016年8月26日 新聞掲載(第3154号)
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