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2017年12月12日

“#死にたい” 日本の国策、収容所への道

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座間市のアパートで若者九人の遺体が見つかる凄惨な事件が起きた。その後もSNS上では「#死にたい」とのつぶやきが絶えない。どう考えたらよいか。

菅義偉官房長官は事件を受け、政府による対策を指示した。「ツイッターの規制等が検討の対象になる」(「『死にたい』SNSが救いの場 規制、弱者追い詰める?」朝日新聞、十一月二十一日)。書き込みを規制すれば、若者は死にたくなくなるのか。そうではない。若者を死なせないようにする対策でないことから分かるように、政府は無能でなく、ある意味で有能なのだ。一定数の若者を死にたい気持ちにさせることは、国民には知られたくないが、ぜひとも堅持したい国策と見られる。

(1)相模原障害者施設殺傷事件から約一年半が経つ。『創』が事件についてひたむきに連載を続けている。「植松被告とはこの間、何度かの接見でひとつの問題をずっと議論してきた。障害者施設で働きながら、なぜ彼は障害者を安楽死させるべきといった想念にとりつかれるようになったのか」(篠田博之「植松聖被告自身が語った津久井やまゆり園でのこと」『創』十二月号)。接見時のやり取りが生々しく記載されている。「彼らを見ているうちに、生きている意味があるのかと思うようになったのです」、施設の建て替えと聞いて「そんな金がどこにあるのだと思いました」。どういうことかと問う篠田氏に、被告は「安楽死すべきだと思ってますから」。

植松被告は「より多くの人間が幸せに生きる為に7項目の秩序を提案」しているが、その第一は「意思疎通がとれない人間を安楽死させます」というものだ(「獄中の植松聖被告から届いた手紙」『創』九月号)。多数者の幸福のために少数者を死なせるとの思いは、「犯行当時の意識と変わっていない」。

二人の精神科医が所見を述べている。植松被告の思想は「生産性、効率性、社会的負担を判断とした」「優生思想であるといえるでしょう」(松本俊彦「植松被告の思想はヘイトというより優生思想」『創』九月号)。「経済至上主義や成果主義の中、社会的弱者・少数者に対して厳しい視線を向けたり福祉をカットしたり〔略〕「○○ファースト」と自分が属する集団の利益のみを追求したり、という動きが日本あるいは世界で見られる中、この被告はどこかで、自分の考えは世間の支持を得られるのではないか、と感じていたとは考えられないでしょうか」(香山リカ「1年たっても何の答えも出ていない」『創』九月号)。事件の背景には経済政策がある。被告の思想は国策と通底する。だからこそ、被告は犯行前に「衆院議長に手紙を届けた」のだろう(篠田氏)。

(2)京都学園大学理事長に就任予定の永守重信氏が、高校生や保護者を前に同大で講演した(「『速く弁当食べられる人ほど仕事できる』日本電産・永守氏が講演『社会で求められる人材とは』」産経新聞、十一月二十六日)。「大学で教育して即戦力で入社してもらう」。「社会に出て競争で勝てるような人材を学校教育で育てないといけない」。“生産性、効率性、社会的負担”の観点から、人材製造の専門研究が高度に進展するだろう。国際早食い学部、グローバル立食い学部等々が、京都を皮切りに全国の大学に設置されるだろう。“役に立つ”学問の推進は国策である。文学などもってのほかだ。電通の高橋まつり氏が過労自殺しても、支配層は“当時の意識と変わっていない”。

若者は学校や職場で“選別”される人生コースを歩む。スローフードを深く愛する私のような“役立たず”“価値なし”と判定される。働かざる者、食うべからず。“働ケバ自由ニナル”。だが無価値者のために“ガス室”を設置するのはコストがかかる。人権団体等への対応にもコストがかかる。ならば、若者の心を追い込み精神的に孤立させて、「#死にたい」とつぶやくように仕向ければよい。“自己責任”で自ら死んでゆくなら、コストはかからず、支配層も責任を負わずに済む。市場の“自動調整”以上に優れた“最終解決”があろうか。植松被告と異なるのは手段であり、目的は通底する。

(3)こうなると、カズオ・イシグロ氏の作品群を思わずにはいられない。『わたしを離さないで』は「九〇年代末のイングランドが舞台」だが、「そこでは臓器提供のためのクローン人間が作られている」から、「近未来ディストピア小説」ではあるものの(真野泰「カズオ・イシグロのボーダーレスな小説世界」『世界』十二月号)、日本の今を見るようだ。語り手キャシーの友人たちは「四回の臓器提供を終えて死んでゆく」。キャシーは言う、「友人を失っても、友人の記憶を失うことはない、と。でも、その記憶が頼りないのだから切なくなる」。日本人も忘れやすい。国策に好都合だ。

友人たちは“即戦力”として、支配層により決定済みの人生コースを歩む。利用する“価値なし”と判定されるまで。イシグロ氏いわく、彼らは「運命を避けることはできない」し「逃げる先もない」(小松美彦、田中智彦「『ヘールシャム化』する世界」週刊読書人、一六年三月十八日)。働けば自由になるとは言えない。選別を経ても「管理社会に飼われた家畜ゾンビ」として生きるだけだ(佐藤雅彦「風刺のこころを取り戻し百花斉放おおいに唱え」『紙の爆弾』十一月号)。学校を出る前も出た後も収容所なのは、日本と同様だ。生きることと死ぬことに大した違いがなくなるほど、「#死にたい」とつぶやきやすくもなろう。

イシグロ氏の「主要作品を通じて問われているテーマの一つ」に、「権力への庶民の向き合い方」がある(長谷部恭男「人としていかに生きるか」『世界』十二月号)。代表作『日の名残り』から、長谷部氏は以下の一節を引用する。「庶民が学び知り得ることにはかぎりがあるわけで、国家の大問題について、彼らすべてに『強い意見』を示すよう望むのは、賢明なこととは言い難いでしょう」。よって権力は、強い意見をもてない庶民に介入しうる。庶民は飼い殺されるしかないのか。

イシグロ氏の作品で「問われているのはいつも、人としていかに生きるか、とりわけ権力にいかに向き合うか、という普遍的な問題である」。長谷部氏も人々の「記憶」に着目する。それは「あいまい」かもしれないが、「ここには、庶民としての偽りのないまごころが示されている」。ただし、記憶は「他者と共有可能なものでなければ、自身の生涯を意義づける確かな根拠とはならない」。それは「個人の場合も、民族の場合も、同じである」。

「#死にたい」の書き込み規制は、若者をいっそう精神的に孤立させ、周囲の人々による記憶の共有可能性自体を排除する。人々のまごころを二重に踏みにじる。映画「ショアー」の主題は、記憶の抹消だった。国策は“ナチスの手口”に学んだものか、日本の支配層は本能的にナチス的なのだ。モリ・カケ疑惑の問題も、記録の抹消だ。「ヒトラーの思想が降りてきた」と植松同志も語る。

真野氏は、昨年に「イシグロが英紙『フィナンシャル・タイムズ』に寄せた「英国の名残り」に心を打たれた」という(原文は同紙ホームページで無料で読める)。表題は代表作に「EUへの『残留』をかけたもの」だ。イシグロ氏は言う。「わたしが深く愛する英国は、困ってよそからやってきた人々に迷わず同情し、どちら方向であれ極端に走った政治思想が人の憎しみを煽ろうとしても煽られることのない、公正な心をもつ真っ当な国だ」。そもそも難民をほとんど受け入れないばかりか、武装難民を射殺すると放言したり、自国の若者の自殺を放置したりする非情な日本を、氏は愛さない。

(4)近未来小説が日本の今と重なるのは、日本が時代の果てに突き進んでいるからだろう。R・ベラー氏は、丸山眞男、J・ハーバーマス、C・テイラーの三名を取り上げ、近代の意味を問い直す(ロバート・N・ベラー著、中島隆博訳「近代に向き合う」『思想』十一月号)。「ウェーバーが近代社会を資本主義と呼ぶよく知られたやり方は、今なお有効だ」。「重要」なのは、上記の「三人の思想家たちが公共圏と民主主義の強力な主唱者であり」、「規制のないネオリベラルな経済を弁護しはしなかった」ことだ。国策は“鉄の檻”への、収容所への道である。

公共圏と民主主義にとって「最も重要な課題は宗教をどう考えるか」だ。それは「制度化された宗教に還元できない宗教性」を指し、人々の「心の習慣」を、“まごころ”を倫理的に支える。テイラーはカトリックで、近年のハーバマスは宗教の「重要な役割」を認めるが、丸山は「それほどの関心を示さなかった」。人々に“強い意見”をもつよう望んだのか。人々は途方に暮れ、収容所行きにならないか。

文学でも心を育める。イシグロ氏と村上春樹氏は「ランチを楽しむほどの仲」だ(「長崎出身英国人カズオ・イシグロ氏、村上春樹氏親友がノーベル文学賞」スポーツ報知、十月六日)。友人との昼下がりの文学談義は至福のひとときだろう。二人の早食いなど想像すらできない。
2017年12月8日 新聞掲載(第3218号)
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