いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて 書評|松本 猛(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年12月9日

絵本史としても興味深い
画期的で決定版ともいえる渾身の評伝

いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて
著 者:松本 猛
出版社:講談社
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いわさきちひろの絵本や、彼女の絵が表紙になっている本は、現在もたくさん書店に並んでいるので、一九七四年に五五歳の若さで亡くなってからすでに四〇年以上も過ぎたという感じがしない。没後も長いあいだ国語の教科書の表紙を飾ったり、今も毎年カレンダーにもなって広い層に親しまれているからなのだろうか。まさに国民的な絵本作家であり画家だといってもいいだろう。

ちひろについては、これまでも色々と語られ書かれてきている。評伝や研究や、人と作品を紹介したムックもある。この本は、それらの成果を踏まえつつ、前ちひろ美術館館長でもあった息子の目を通して、母・ちひろの記憶をよみがえらせながら書かれた、画期的でまさに決定版ともいえる評伝である。

ちひろの本名は「知弘」で、陸軍建築技師の正勝と、女学校教師の文江の長女として、文江の勤務先の福井県武生町で、一九一八年一二月一五日に生まれる。正勝は日露戦争のときバルチック艦隊と戦った後、軍艦で世界を数回巡ったという国際的感覚の持ち主で、その後正則英語学校で英語を学んだ後、日本工科学校で建築を学び、卒業後に陸軍築城本部に入る。若山牧水の妻となる女性に恋をしたという文学青年でもあったらしい。

母の文江は、元来松本城に米を収める御用商人の岩崎家の長女として生まれ、松本高等女学校を経て開設したばかりの奈良女子高等師範学校に入学。卒業後に文部省の辞令を受けて、武生町立武生実科高等女学校(現・福井県立武生高校)に赴任する。

ちひろの両親の結婚、つまり正勝が岩崎家に婿養子に入る経緯や手紙のやり取りなどから、ちひろ誕生後の家庭環境や両親の養育意識なども垣間見られるが、序盤の記述はさながら著者のルーツに迫るようで、そこから岩崎家の立ち位置も見えてくる。岩崎家では、ちひろの子ども時代に、家でクリスマスを祝っていたともいうから、当時としては珍しく相当モダンな家庭だったようだ。

女学校の教師である母の文江は教育熱心で、父の正勝は児童文学に関心があり絵を描くのも好きだったという。そして、ちひろが生まれた年に「赤い鳥」が創刊され、それを追って「金の船」「童話」といった童話童謡雑誌が次々と創刊されるなど、ちひろの子ども時代は、ちょうど子どもの本の黎明期に重なっていた。一九二二年に創刊された絵本雑誌「コドモノクニ」が、ちひろの最初の愛読書だったという。それが、岡本帰一や、武井武雄、初山滋の絵にあこがれるきっかけにもなったのだ。絵本研究家でもある著者の目を通して描かれる、ときどきの絵本作家や画家についての記述も、絵本史的に見て興味深いものがある。

ちひろが小学校二年生のときに、文江はエリート校である東京府立第六高等女学校に転勤する。ちひろも小学校を卒業すると、競争率一〇倍の難関を突破して母が教鞭をとる第六高等女学校に入学する。そこでの自由な気風と岡田三郎介のところで絵を学んだことが、後のちひろの人生に大きな役割を果たすことになるのだ。

両親のすすめと相手の熱情から、ちひろはやむなく結婚して夫とともに満洲の大連にわたるが、ちひろは夫を寄せ付けず、二年間の仮面夫婦生活は夫の自死により悲惨な結末を迎える。太平洋戦争が始まり、第六高女をやめて大日本連合女子青年団の主事に転身した文江は、満蒙開拓団の結婚を斡旋する開拓士結婚相談所所長になるなど、戦時下での文江や正勝の負の部分も、容赦なく記述するあたりに著者の気概のほどが感じられる。

戦後共産党に入党し、新聞記者をしながら絵を学び、丸木位里・俊夫妻との親密な交流などを通して交友関係も広がり、子どもの本の画家としてデビューし、松本善明と出会って結婚してわが子を得、革命家の妻として絵本作家として忙殺されるに至る後半は、戦後の絵本史とも重なり読みごたえがある。ちひろを「母であるとともに、師でもあった」という著者による渾身の評伝である。
この記事の中でご紹介した本
いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて/講談社
いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて
著 者:松本 猛
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年12月8日 新聞掲載(第3218号)
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