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更新日:2017年12月19日 / 新聞掲載日:2017年12月15日(第3219号)

皇太子殿下御降誕奉祝記念写真

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(右上)十二月二十九日、輝く皇太子殿下の御命名式当日、東京市電気局の奉祝電車が市中後進の光景(右下)皇太子殿下御誕生の佳き日に、東京赤十字産院に於て、殿下の御降誕と僅か五分位の違いを以て誕生したる三人の赤ちゃん達。(『歴史写真』昭和九年二月号)

「【宮内省告示第三十号】皇后陛下本日午前六時三十九分宮城ニ於イテ御分娩親王御誕生アラセラレル 昭和八年十二月二十三日 宮内大臣 湯浅倉平」

一九三三年、皇太子誕生を伝える告示だ。身長五十センチ、体重三千二百六十グラム。昭和天皇の結婚十年目に、ようやく誕生した男子は、継宮明仁つぐのみやあきひと親王と命名された。二〇一九(平成三十一)年四月三十日に退位する平成の天皇である。

この朝、皇太子誕生を告げる二回のサイレンが東京市内十八か所でいっせいに鳴ったのを合図のように、全国に祝賀行事がつづき、街には花電車が走り、イルミネーションが夜景を飾った。

『歴史写真』昭和九年二月号は、「皇太子殿下御降誕奉祝記念号」と銘打って、各地の祝賀行事を大特集した。宮城前広場を埋め尽くす「命名式当日」の群衆、三十団体千五百名の音楽大行進、大相撲力士たちの延々と続く市中行列、大阪天王寺動物園の猿リタを先頭にした動物たちの行進などなど、掲載写真のすべてを紹介できないのが残念なほど、人々の喜びと編集部の熱気が伝わってくる。

この三枚の写真は右上「東京市電の花電車」、左「万歳する大阪の某幼稚園園児」、いずれも命名式当日の二十九日の撮影だ。

そして右下は「東京赤十字病院で皇太子と五分くらいの差で誕生した新生児三人」、健在ならば間もなく八十四歳になる。昭和から平成の戦争から平和への激動を、そして二〇一九年に迎える新時代を、どのように生きることになる赤ん坊なのだろう。

昭和天皇と香淳こうじゅん皇后は、大正十三年一月二十六日に結婚、翌年十二月に長女照宮しげ子内親王(のち東久邇宮盛厚もりひろ王と結婚)、続いて孝宮和子内親王(のち鷹司平通と結婚)、順宮よりのみや厚子内親王(池田隆政と結婚)と女児が続いた。巷説だが、親王が生まれないかもしれないと危惧する者が側室を迎えるよう昭和天皇に進言し拒否されたという話まである。

それだけ、皇室の安泰がかかる皇太子誕生を、誰もが期待していたのだ。

祝賀写真は、リアルタイムのメディアと国民の反応である。

この六十五年前の明治維新のとき、どれほどの日本人が天皇を知っていただろう。

一世紀もたたないうちに、天皇に対する「崇敬の念」を、これほどまでに国民に強く抱かせた明治政府の「手腕」は驚くばかりだ。

さて、皇太子が誕生した宮殿の奥の様子を、史料でみてみよう。

父親の昭和天皇と初対面したのが、午前七時過ぎ、八時十分過ぎに皇族や宮内省職員などが集まって、シャンパンで乾杯(『昭和天皇実録』)した。この祝杯で「いい気分になった」原田熊雄男爵(西園寺公望の秘書)は、天皇が密かに「恩赦は軽々にするものではない」と内大臣に釘をさしていたことを知る。そして、誕生前夜には秩父宮(昭和天皇弟)に呼ばれ、祝賀について「あまり低級な騒ぎ方はやめて、もう少しこうじーつと地道なことにならないものかしら」と言われてもいた(『西園寺公と政局』)。そんな天皇家の思惑を超えての過熱ぶりだ。

皇太子誕生の十か月前に、日本は、国際連盟を脱退して国際的な孤立化を深めて、戦争という破滅への道を歩き始めていた。皇太子誕生の祝賀ムードは、大日本帝国が分水嶺で眺めた落日の一瞬だったようだ。
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