若槻菊枝 女の一生 新潟、新宿ノアノアから水俣へ 書評|奥田 みのり(熊本日日新聞社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年12月16日 / 新聞掲載日:2017年12月15日(第3219号)

この系譜を絶やしてはいけない 
自然体で“女一揆”を生きた若槻菊枝の姿

若槻菊枝 女の一生 新潟、新宿ノアノアから水俣へ
著 者:奥田 みのり
出版社:熊本日日新聞社
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「この系譜を絶やしてはいけない」と、読みながら強く思った。

本を手にした瞬間、ああノアノア、若槻菊枝さん! と、40年以上前の記憶が甦った。

当時私は、TV番組制作会社に入って2年目。水俣を撮り続けた記録映画監督、土本典昭さんの助手をした。しかし民放のドキュメンタリー枠では、スポンサーの反対にあい、水俣病は扱うことはできなかった。

そんな中、土本さんに、新宿のノアノアに連れていかれた。名物ママが店に「苦界浄土募金箱」を置き、一人一人の客からカンパを集めている。それだけではなく、上京し、長期にわたり坐り込む患者たちの宿舎にと家を借上げ、また自宅の一室を、石牟礼道子さんの書斎に提供していると。

同志のように紹介された若槻菊枝さんは、おかっぱ頭に太く豊かな体つき、明るい様々な色と柄が混じったロングドレス。童女のようでもあり、身体中に肝っ玉がつまっているようでもあり。店の中でそこだけ光があたっているような強烈な印象があった。

田辺茂一、吉行淳之介、戸板康二ら138人が発起人となった25周年記念のお祝いの会があった年のことだ。

しかしこの本を読むまで、彼女がここまですごい人であったとは、想像していなかった。新潟の貧しい農村に生まれ、17歳で最初の結婚。東京にあこがれ出奔。雑誌編集者との結婚、離婚。学生や画家の恋人たちとの別れ。人生の伴侶となる19歳年下の登美雄さんとの結婚。

自然体で“女一揆”を生きたのだ、と思った。

原点は、幼い時に体験した、敗北に終わった小作争議である。
「わたしは父を尊敬している。父は農民運動の闘士だった。わたしは父の子なのだ。そういうプライドが田舎者の劣等感に打ちかって生涯の支えになってきた。なにか世の中のためにならなければ」

別の意味で心うたれたのは、この争議では、若い女も男たちに交じって演説をし、一生村から出ることもなかったであろう女房たちが「女房連」として上京。関係各省に陳情に歩き、大衆が集まる演説会で、堂々と自分たちの窮状を訴えているのだ。

こうした女たちの行動力は、その後の生き方に大きな影響を与えたはずだ。米騒動のきっかけとなった富山の漁師のおかみさんたちや、身体をはって自分たちの土地を守ろうとした、三里塚の婦人行動隊の女たちにも通じる。

ただ若槻菊枝さんが違ったのは、商売の才覚があったことだ。

戦後すぐの闇市、小さなそばや、初めてノアノアの名前をつけたハモニカ横丁のバー。一時は新宿で、5軒もの店を同時に経営していた。店を脅しにきたチンピラには、逆に勘定を払わせた。

店を引退してからは、画を描くことに専念し、毎年のように二科展に入選する。

88歳で画集を出版。患者の杉本栄子さんは、このお祝いの会に、水俣から駆けつけて踊った。それまで面識はなかったが、水俣病の裁判で一番大変だった時に応援してくれた、私たちにとっては命の恩人だ、と。

その後、彼女の描いた、魚をモチーフにした、色鮮やかで生命力にあふれた油絵が、胎児性・小児性水俣病患者の共同作業所、「ほっとはうす」に贈られた。

数年前、ほっとはうすを訪ねたことがある。土本さんの映画の中では、まだ幼く若かった胎児性・小児性水俣病患者たちが、心は当時のままに無垢で、知能もそのままで、ただ肉体だけが年をとっていた。

あまりに中身の濃いこの本に接し、頭の中で様々なことがぐるぐるまわっている。

著者の奥田みのりさんに感謝したい。よほど丁寧に調べたのだろうと思った。筆致にゆるぎがなかった。

読み終えて、微力ではあっても、魅力的に闘う若槻菊枝さんの系譜をつぐ一人でありたいと願った。
この記事の中でご紹介した本
若槻菊枝 女の一生  新潟、新宿ノアノアから水俣へ/熊本日日新聞社
若槻菊枝 女の一生 新潟、新宿ノアノアから水俣へ
著 者:奥田 みのり
出版社:熊本日日新聞社
以下のオンライン書店でご購入できます
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