絶筆にふさわしい出来だった津島佑子の『狩りの時代』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

文芸
更新日:2016年9月2日 / 新聞掲載日:2016年9月2日(第3155号)

絶筆にふさわしい出来だった津島佑子の『狩りの時代』

このエントリーをはてなブックマークに追加
今年二月に亡くなった津島佑子の絶筆として出版された『狩りの時代』は、父方と母方両方にまたがる親戚関係をキャンバスに、戦前から今に至る時代の流れを描き出した作品。津島は死去の時点でまだまだ手を入れるつもりだったそうで、確かに粗い部分はあるものの、絶筆にふさわしい出来である。

主人公・絵美子は幼いころに父を亡くしており、これは津島の境遇を反映している。甲府を故郷とする母方と仙台に根のある父方はどちらもきょうだいが多く、常に行き来がある。父方の最年長の伯父である永一郎は物理学者で、戦後まもなくアメリカに渡り学界で成功を収めている。永一郎を媒介にして、小説の舞台はアメリカにも広がっていく。

小説の核にあるのは、絵美子が十二歳のときに死んだダウン症の兄・耕一郎との関係である。言語の発達などは十分でなかった耕一郎だが、二人で多くの時間を過ごした兄妹の間には想像される以上に細やかな感情が行き交い、エロティシズムすら感じさせる。それだけに兄を失った絵美子の喪失感は深い。この核があってこそ、母方のおじ・おばが子供のころ来日したヒトラー・ユーゲントの少年との間に起きた出来事や、絵美子と従兄たちとの関係、おじ・おばがドイツ人夫婦との間に起こす四角関係の事件などが有機的に立ち上がってくる。

その背後には日本の近代を貫く功利主義的な価値観、白人への劣等感と裏腹の弱者への差別意識、日米を容赦なく結び付けた原子力の影などがある。複雑に絡み合った問題群を図式的にも糾弾調にもならず、私たちの生の条件として静かに浮かび上がらせている。

高尾長良の「みずち」(『新潮』九月号)は大学を出て間もない若い夫婦の話。夫・一井は病院に事務員として勤めている。一井の母が五年前に亡くなる際、キリスト教徒として塗油を望んだのを父が無視してしまう。一井は父に反発するが、母親のキリスト教信仰にも疑いの目を向ける。そうした中で妻・扶実はキリスト教に傾倒していく。わだかまりを抱える一井は、扶実の妊娠を受け入れることができない。

短いなかに教会、般若面、蛇など強いイメージをかき立てるシンボルが詰め込まれているが、あざとい感じがしないのは落ち着いた雰囲気の京都が舞台になっているせいもあるだろう。一井は相当深い混乱状態にあるのだが、その内面にあまり踏み込まず、一見静かな日常の中にはめ込むことで、かえって強い印象を残すことに成功している。北部の農村にある扶実の実家を訪問する場面も、京都との対照によって独特の陰影が生じている。

扶実と一井の間には、あるいは一井の両親もそうだったかもしれないように、明らかな社会・経済的な格差があって、それが夫婦の表面的な力関係を決めているのだが、二人の妻の精神性は夫たちを凌駕しており、そこに魂の行方を巡る熾烈な争いが生じている。

乗代雄介の「本物の読書家」(『群像』九月号)では、老人ホームに入所する大叔父と付き添う「わたし」の二人連れが電車で怪しい大阪弁の男に出会う。大叔父は過去に川端康成と手紙のやりとりがあったらしく、文学好きである「わたし」はその経緯に淡い関心を抱いている。ところが隣席に座った男は圧倒的な文学知識をひけらかしつつ、「わたし」を差し置いて大叔父の秘密に迫ろうとする。

作家の生年月日をそらんじるなど、衒学的に知識を見せつける男の姿が、ぎりぎり嫌味にもならず、大叔父の秘密とともに読者の興味を惹き続けるところは見事なさじ加減。大阪弁は図々しく押しが強いというステレオタイプに一見乗ったように見せながらも最後にはひっくり返す。全体としては「よくできた話」の枠内に収まった感もあるが、神経の行き届いた佳作である。

舞城王太郎「Would You Please Just Stop Making sence?」(『新潮』九月号)はアメリカのサンディエゴを舞台にした作品。暴力と悪が渦巻く世界で、危うくも自分を保っている日系の刑事が主人公だ。

アメリカが舞台であるだけに、全ての会話がもともとは英語であるという設定で、翻訳調の文章になっているが、文化的な壁を感じさせることはなく、登場人物の心理の動きなどが違和感なくストレートに読者に伝わってくる。アメリカという舞台やアメリカ人の登場人物に特別な屈託を感じさせないという意味では、日本人作家としては特異といってよい域に達しているように思われる。独自の作品世界はますます深みを増している。

浅生鴨「伴走者」(『群像』九月号)は、パラリンピックの盲人マラソンへの出場権獲得を狙って南半球の島国で開かれる大会に出場するランナー内田と、その伴走を務める晴眼者のトップレベルのランナー淡島の話。対照的な性格の盲人と晴眼者の二人のランナーが協力して優勝を目指す。レースの場面と過去の回想を繰り返す構成がやや単調さを感じるものの、登場人物の造型やストーリーの展開は緻密に計算され、狙ったところに着地させる手際は鮮やか。障害者スポーツへの理解を高めようという作品の趣旨やパラリンピックに合わせた発表のタイミングも小気味よさがある。それらの意味も含め、明らかに純文学向きではないが、優れた書き手である。

津村記久子の「うそコンシェルジェ」(『新潮』九月号)はふとしたきっかけで上手な嘘のつき方の指南役となった女性の話。この作品での嘘は、人を食い物にしようとする周囲の魔手から逃れるための方便として描かれている。人の感情を傷つけることで自分が救われようとしたり、相手の好意を利用して利益を得ようとしたり。他人を犠牲にすることをためらわない人間の攻撃性にいかに対処するかは、津村がデビュー作以来追求するテーマの一つである。

エッセイ集『断片的なものの社会学』で注目を集めた社会学者・岸政彦の小説デビュー作「ビニール傘」(「新潮」九月号)は期待を上回る。地方から大阪に出てきて不安定な職に就いている若者たちの生活の断片。彼らを取り巻いているのは食べ物から生活雑貨に至るまで大量生産の安価な既成品であり、そのぺかぺかした存在感のなさは彼らの生の頼りなさそのものだ。それでいてそれら消費され捨てられるコモディティに不意打ちのように宿る美しさを作者は見逃していない。それは誰一人見向きもしない片隅にも確かに何者かがじっと潜んで世界を見返していることを物語っている。

神慶太の「裂け目、あるいは穴」(『すばる』九月号)は、鋭敏な神経が生み出す冷たい幻想。アンナ・カヴァンを思わせる世界であった。
このエントリーをはてなブックマークに追加
友田 健太郎 氏の関連記事
文芸のその他の記事
文芸をもっと見る >