宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談 民主主義は不可能な理想か コモンセンス(共通感覚)が壊れてしまった世界で|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年12月22日 / 新聞掲載日:2017年12月22日(第3220号)

宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談
民主主義は不可能な理想か
コモンセンス(共通感覚)が壊れてしまった世界で

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第3回
コモンセンスの崩壊?

宮台 真司氏
宮台 
 仲間集団は幾つも散在します。そこで可能なのは、第一に、所属する仲間集団を大切にしたいなら仲間集団同士の争いを回避せねばならず、そのためには所属する仲間集団を超えた関心=公的関心を持つ必要がある、という知恵のシェア。第二に、自分は大きさも内容も違う複数の仲間集団に属するという所属の重なり合い=マルチチュードです。こうして、結果としては一次的な仲間を超えた全体の幸いを希求する方向に向かえます。

ただしそれが可能になる出発点はあくまで「損得を超えた愛と正しさ」を基本にした一次的な仲間を持つこと。ルソーが言う「憐れみ」と同じです。彼が言う民主政の条件は「憐れみ」が働くこと。だからジョン・ロックを批判しました。ロックは大規模定住社会を代議制でしか覆えないと考えたけれど、そこでは損得ベースの動員が働くだけで、そんなものは民主制じゃない、と。コモンセンスが消えた今はルソーの言う通りだったと納得します。「憐れみ」を重なり合う雨紋のようにしてどこまで拡大できるかです。

それについてかつて楽観的たり得たのは豊かな対人ネットワーク=ソーシャルキャピタルを中間層が支えたからかもしれない。でもグローバル化ゆえに中間層再興は不可能です。別の方法が必要です。「いいね」やフォロワー数を貨幣のように集める「損得」ベースのインターネットは処方箋になりません。とはいえ様々なテクノロジー、例えばグーグルみたいな情報技術の開発やジョナサン・ハイトが言う道徳心理学的な「感情の押しボタン」の共有やサンスティーンが言うナッジ開発が、「損得」を超えた「内から湧く力」「愛と正しさ」「憐れみ」「コモンセンス(共通感覚)」を可能にするかもしれない。それができなければ政治は広告代理店的な大規模動員の空中戦に終始し、金のある奴が有能な連中を雇って好き勝手をします。情報技術や政治技術をそれに抗う方向で組織できるかどうか。それによって「内から湧く力」「愛と正しさ」「憐れみ」「コモンセンス」を大きな範囲でシェアできるかどうか。
渡辺 
 気になるのは、コモンセンスが壊れてしまったのか、あるいは壊れているように見えるのは単なる錯覚で、従来とは違った新しいタイプのコモンセンスが生まれてきているのか。それに我々が気づいていないだけなのかもしれないということです。
苅部 
 そして、それはわれわれにとって愉快なコモンセンスではないかもしれない。
宮台 
 かつてコモンセンスには損得を越えた共有材というニュアンスがありました。「自分だけじゃなく皆が」という部分が損得超えです。できるだけ大勢が「Win Win」に至れればいいという感覚があるかどうか。今のコモンセンスは違います。仲間を大切にする気持ちを伴わないコモンセンス。そんなものはコモンセンスとは呼ばないだろうと思います。
渡辺 
 ただ、これはアメリカの話ですが、最近、テレビでこんな実話を紹介していました。財布を忘れ車がガス欠になってしまった女性に、ホームレスの男性が代金の二十ドルを支払ってあげた。それに心を動かされた女性が、「このホームレスを救おう」とネットで募金活動をはじめると、即座に四千万円ぐらい集まった。繋がりが欠けている社会でありながらも、こんなことも起こり得る。何かきっかけがあった時、それをうまく吸収するプラットフォームが、インターネットというテクノロジーをもとにして出来上がっている。クラウドファンディングが典型的ですが、今後新しい感情のプラットフォームが生まれてくる可能性は、十分あるのではないでしょうか。
苅部 
 よく言われる「分厚い中間層がデモクラシーを支える」という理論を唱え始めたのは、アメリカの政治学者、シーモア・リプセットで、一九六〇年代はじめの仕事のようですね。そうすると、五〇年代のアメリカ社会におけるデモクラシーの安定ぶりを自己賛美する、ある種のイデオロギーだったようにも思えてきます。
渡辺 
 神話みたいなものですね。
苅部 
 ヨーロッパの政治史を見れば、階級分裂のあるところでデモクラシーが活性化した例はいくらでもあるはずですから、「分厚い中間層」がなくなったからデモクラシーが駄目になるとは必ずしも言えない。日本でも近年に階層分化が進んでいると指摘する人もいますが、そのせいで戦後デモクラシーが行き詰まると考えなくてもいいように思います。極端に言えば、アメリカの「中間層」に相当するような、豊かさと生活様式を共有するグループが日本社会を分厚く支えていた時代など、なかったのではありませんか。もちろんそれ以外の原因で、日本の政治が近年変容していると考えてみることにも、十分意味があるでしょうけどね。
宮台 
 苅部さんは一九五〇年代のアメリカの話をされた。当時の社会学者で中間層が何を可能にしたのかを分析した人が二人います。ポール・ラザースフェルドとジョセフ・クラッパーです。ラザースフェルドは大統領選挙の分析で、オピニオンリーダー概念で知られる「二段階の流れ仮説」を実証します。人々は小集団のオピニオンリーダーが咀嚼したマスコミ情報を受容、それで誤解や曲解が修正され、民主政の合意可能性が調達される、と。

その少し前、クラッパーが「限定効果説」を唱えます。第一に、暴力的メディアが暴力的人間を育てるのでなく、暴力的人間がメディアで引き金を引かれるに過ぎないと実証した。第二に、引き金を引かれる度合が対人ネットワークに依存することを実証した。一人で視るか、親しくない誰かと視るか、親しい者と視るか。一緒に視る人間が親しいほど引き金を引かれない。一緒に視なくても事後に番組について話せる親しい相手がいれば引き金を引かれない。かくして番組内容よりも受容環境の管理が必要なのだと結論しました。

二人の仮説から分かるのは、中間層があればいいということではなく、中間層が可能にしたソーシャル・キャピタルが人々の分断と孤立を防いで姑息な動員にしてやられる可能性を抑止するというのがポイントです。分断と孤立を防ぐソーシャル・キャピタルが得られるならば分厚い中間層がなくてもいい。アンソニー・ギデンズが言うように英国の階級社会では貴族階級と労働者階級の双方が独特のソーシャル・キャピタルを保持していたのです。

こうした発想はフランクフルト学派の「権威主義的パーソナリティ論」ともつながる。それによれば、没落意識を持つ人びとが分断されて孤立するほど被害妄想に陥って誇大妄想で埋め合わせます。かくして誇大妄想的プロパガンダに容易に動員される人々が全体主義を駆動します。不安を埋め合わせるための強迫が神経症の正体だとするフロイトの理論を応用したものだから「フロイト左派」とも呼ばれます。ここでもやはり出発点にある不安――没落感や孤立感――を防げれば中間層がなくてもいい。機能主義的思考と言います。
政治家の資質

渡辺 
 そこは、この鼎談でも何度か議論してきたテーマですよね。その問題を考える時、まさに先ほどおっしゃったように、政治技術ではなく、コモンセンスに訴える形でどう実現していくのかが問われています。例えば、アメリカでは政治家は身近なエピソードを演説や討論会でよく用います。自分の家族の話、アメリカン・ドリームを体現した人の話、苦境に陥っている人の話などです。そういう形で有権者のコモンセンスに訴えてゆく。ただ、そうした手法は、政治コンサルタントの中では、既にマニュアル化されている。同じように、宮台さんの感情プログラムに関する取り組みも、それがうまくいくと分かった途端、安易にマニュアル化されてしまう危険性もあるのでは。あるいは逆に、人々のネガティブな感情を煽り、被害者意識や敵対感情を人為的に作り出すマニュアルがより精緻になってゆく危険性もある。しかも、そうした感情の創出をビッグデータやAIを駆使して行い得る社会に、最早差し掛かっている。アメリカの大統領選では日常的な光景になっていて、フェイクニュース拡散を助長したデータ企業の存在も明らかになっています。

中国に行ってよくわかりましたが、キャッシュレス社会が相当浸透していて、個人情報がどんどん取られている。つまり行動パターンが全部読まれているわけです。ビッグデータやAIの恩恵を一番受けているのは中国政府であり、人民の管理統制がより容易になる。シニカルな見方ですが、コモンセンスの醸成を目指していく時、自発的でオーセンティックな感情だと思っていても、実はある特定の政党なり企業によってすっかりコントロールされかねない世界になっている。その中で、果たして市民の主体性などナイーブに信じて良いのか。ミドルクラスの市民的美徳に頼っていいのか。そして、民主主義をもう一回作り直していけるのかどうか。ちょっとした危惧も覚えるのです。
宮台 
 さすが渡辺さん、嫌な点をつきます(笑)。イタリア政治史を見れば渡辺さんの心配が杞憂じゃないのが分かります。サンディカリズムの伝統があるイタリアはナチズムと違って小さな中間集団を使ってファシズムを立ち上げた。「ウンコのおじさん」がオーガナイズする仲間集団が全体主義の醸成装置として働いたのです。全体主義を煽動するほど「ウンコのおじさん」が成功を実感できるからです。こうした安直な「マニュアル依存」をどう阻止できるか。「ウンコのおじさん」が抱く価値が大切になります。「ウンコのおじさん」にどう価値を実装するか。サンスティーンがいう二階の卓越者の養成装置が必要になります。
苅部 
 コミュニケーションと集団形成に関しては、日本社会でまっとうに生活している人たちの能力は案外高いと思っています。最近、ある町内会の会合に出席させていただいたことがありました。ぬるま湯のような寄合を想像していたのですが、実際には激しい議論を闘わせていて、大学の教授会よりもずっと活性化しています(笑)。誰がコストを負担するかといった損得と無縁ではないでしょうが、異なる意見にも耳を傾けながら、対話によって合意を作っていく姿勢が根づいています。

そういうわけで普通の人のコミュニケーション能力はそれなりに高い。しかし、政治家のそういう能力が高くないんですよ(笑)。この点については、砂原庸介さんの『分裂と統合の日本政治』(千倉書房)がおもしろい指摘をしています。日本では、国政では選挙制度改革、地方政治では分権改革と二つの改革が並行して進められた。その結果、国政は小選挙区制によって二大勢力の競争という形に近づいたのに、地方政治は中選挙区制のままで従来の利益誘導型の政治が続き、分権化によって知事の権力が強くなった結果、知事が利益を分配して議員をまとめるようになった。そうすると旧民主党のように、個別利益誘導型の政治に反対し、政策プログラム体系を作って、政権交代をめざすような政党は、地方政治では弱くなって基盤を作れない。

本来なら、個別利益の誘導か政策の一貫した体系をめざすかは、二者択一ではないはずなんですね。政治家が地元の要求にむきあい、交渉しながらそれを政策プログラムとすりあわせてゆくような能力が、「リベラル」派の議員も与党の側も、衰えてきているのではないでしょうか。政治の現状に関して問題が多いのは、一般の人の資質よりも政治家の方だと思います。
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この記事の中でご紹介した本
子育て指南書 ウンコのおじさん/ジャパンマシニスト社
子育て指南書 ウンコのおじさん
著 者:宮台 真司
出版社:ジャパンマシニスト社
「子育て指南書 ウンコのおじさん」は以下からご購入できます
ポピュリズムとは何か/岩波書店
ポピュリズムとは何か
著 者:ヤン=ヴェルナー・ミュラー
出版社:岩波書店
「ポピュリズムとは何か」は以下からご購入できます
憲法パトリオティズム/法政大学出版局
憲法パトリオティズム
著 者:ヤン=ヴェルナー・ミュラー
出版社:法政大学出版局
「憲法パトリオティズム」は以下からご購入できます
生前退位‐天皇制廃止‐共和制日本へ/第三書館
生前退位‐天皇制廃止‐共和制日本へ
著 者:堀内 哲
出版社:第三書館
「生前退位‐天皇制廃止‐共和制日本へ」は以下からご購入できます
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