私の2017年 多様体論の美 松浦 寿輝|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年12月24日 / 新聞掲載日:2017年12月22日(第3220号)

私の2017年
多様体論の美 松浦 寿輝

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名誉と恍惚(松浦 寿輝)新潮社
名誉と恍惚
松浦 寿輝
新潮社
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静穏な一年だった。長篇小説『名誉と恍惚』が三月に刊行されたが、もはやほとんど興味がなかった。前年九月に入稿用決定稿を完成した時点でもうわたしにとって過去のものとなってしまった仕事で、刊行後にインタビューを受け「意図」やら「動機」やらをこまごまと訊かれたりするのはむしろ苦痛だった。もう何もほじくり返さず、放っておいてくれないものかと思う。しかし、それもこれも世間様とのお付き合いというものか。

本当はこの長篇の後すぐさま次作に取りかかる予定で、年初以来それがすぐに始まっていればこの一年は静穏どころではなかったはずだ。ところが、今まで経験のない「書き下ろし一挙掲載」というやつをぜひやってみたいと雑誌の編集部に申し入れたのが敗因だった。書き下ろしの企図はあながち法螺でもなく、やる気だけは十分あって、こちゃこちゃとあれこれ書き散らし、断片的なメモは少しずつ溜まってはいったが、まともな形をなすことはなかった。そうなると不貞腐れて、ぜんぶ投げ、寝転んで本ばかり読んでいるということになる。自分が目先の締め切りがなければ何もしない、救いがたく怠惰な男だということを、改めて思い知らされたのである。
それで漫然と暮らしていたが、その漫然のおかげで数学への興味が卒然と再燃したのは、今年嬉しかったことの一つだ。正月頃にドナル・オシア『ポアンカレ予想』(糸川洋訳、新潮文庫)を読んだのがきっかけだったと思う。多様体をめぐる抽象的思考が宇宙の形状の追究に至るというめざましい光景に興奮し、数式を用いずに素人向けに書かれたこうした啓蒙書ではなく、数学者の仕事の現場にじかに立ち会えないものかという思いが湧いた。それでリーマンの『幾何学の基礎をなす仮説について』(菅原正巳訳、ちくま学芸文庫)に取り組んでみたが、これはもちろん身のほどをわきまえない無謀な挑戦で、ヘルマン・ワイルの懇切な解説に助けられてもどうにも歯が立たない。

基礎の基礎から勉強し直さなければならないということがわかって、松本幸夫『多様体の基礎』(東京大学出版会)、雪江明彦『代数学1 群論入門』(日本評論社)、吉田洋一『ルベグ積分入門』(ちくま学芸文庫)などに齧りついて、ずいぶん長い時間を過ごした。もともと中・高校生の頃のわたしは数学の美に魅せられていた少年だったのである。

数学の美への憧れはあっても、哀しい哉、元来それ向きの知能に恵まれていないうえに、今や老いの進行が加わっているから、難儀は難儀である。しかし、数学の勉強は面白い。何とか死ぬ前に、ポアンカレ予想を証明したグレゴリー・ペレルマンの論文が理解できるところまで行けないものか。
この記事の中でご紹介した本
名誉と恍惚/新潮社
名誉と恍惚
著 者:松浦 寿輝
出版社:新潮社
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