横断する作家/空間性と観念/ヴィスコンティ ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(38)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
更新日:2018年1月9日 / 新聞掲載日:2018年1月5日(第3221号)

横断する作家/空間性と観念/ヴィスコンティ ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(38)

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バレンシア映画祭にて
HK 
 国境を越える映画作家に話を戻します。80年代のアメリカにも、多くの外国人映画作家がいました。例えばポール・バーホーべンは、オランダから来ていながら、非常に重要なアメリカ映画を作っていました。70年代以降の作家に関しては、映画の国籍を語るということができなくなっているのではないでしょうか。
JD 
 それは事実です。映画の国籍は以前よりも曖昧なものになっています。映画産業の構造自体が国際化しています。このような流れの中で、映画に表象される文化は曖昧なものになりつつあります。以前の映画を考えると、映画産業の存在していた国は自国の映画を作る必然性がありました。ドイツ映画を見れば、ドイツ的な何かが存在しており、フランス映画には、フランスが表現されていました。
HK 
 作家の映画を考える際に、今でも各々の作家の生きる時代や生活に根差した文化的なところは残っており、それと同時に、その文化の枠組みの外に出ているところも存在していると思います。一方で、特定の時代と地域のコードの中でしか機能しないような大衆映画は古くから存在していました。例えば日本では、今でも国外に出ないような作品が多く作られています。昔との大きな違いは、テレビ局が映画作りに携わっていることですね。
JD 
 フランスでも同様に大衆映画を作り続けています。昔はミシェル・オーディアールによる脚本が、そのような大衆映画の筆頭でした。
HK 
 「作家主義」という考え方の根幹に関わることなので聞いておきたいのですが、そのような大衆映画についてはどのようにお考えですか。近年では、映画作家について語るのではなく、映画を通じて大衆文化の歴史を分析する研究が増えています。
JD 
 どちらにせよ、偉大な映画とは作家による映画です。それ以外は「映画」について語るためには、あまり意味があるとは思えません。大衆文化史の研究は、大学の仕事です。結局のところ、今日まで「映画好きな人々」によって見られ続けている映画とは、作家の映画ではないでしょうか。
HK 
 その通りだと思います。作家の映画とは、局所的なコード以上のものだと思います。グリフィスの映画は、この上なくアメリカ的と言ってもいいと思いますが、それと同時にアメリカという枠組みを明らかに超えているところもあります。
JD 
 グリフィスについて言っておかなければいけないのは、彼はそこから先の映画の歴史を作ったということです。そのために、広範にわたる文化を吸収し、その中から映画特有の表現をも見定めて行く必要がありました。わかりやすい形では、文学の影響が非常に強く見られます。とりわけ大衆文学の文化が反映されています。つまり、当時非常に大きな成功を収めていた19世紀のメロドラマです。グリフィスは、当たり前のようにしてアメリカの文学から影響を受けていますが、同じようにしてイギリスの文学からも非常に多くの影響があります。このようにして、他の文化が作品の中に存在しているわけです。それ以外にも、演劇の文化が反映させているところもあります。
HK 
 グリフィスは疑いなくアメリカを代表する作家ですが、もう一つアメリカにはチャップリンに代表される喜劇映画がありました。チャップリンの作品の中には、サーカスの文化から引き継がれた動きがありますよね。
JD 
 そのような動きによるアクションに加えて、チャップリンもメロドラマの影響を受けています。確かにサーカスという文化から映画を作っています。しかし同時に、ディケンズの影響が、多くの作品の中にあります。つまり、階級社会についてのメロドラマです。登場人物が不幸だからこそ、観客は悲観にくれ泣かなければなりません。

<次号へつづく>
〔聞き手=久保宏樹/写真提供:シネマテーク・ブルゴーニュ〕
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