水俣の記憶を紡ぐ 書評|下田 健太郎(慶應義塾大学出版会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年1月13日

「水俣の魂」とは何か 
若い世代が「歴史」を引き継ぐ

水俣の記憶を紡ぐ
著 者:下田 健太郎
出版社:慶應義塾大学出版会
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水俣病の加害究明のフロントランナーだった宇井純は、公害問題における匿名性を否定した。「匿名の語りは信頼できない。誰が言ったか、常に固有名詞で述べよ」と語るのを聞いて、軽く反発しつつも衝撃を受けたことを思い出す。宇井は2006年逝去したが、振り返ってみれば水俣は多くが固有名詞で語られてきた。

だが、若い世代の下田健太郎が「水俣の記憶を紡ぐ」とき、固有名詞へのこだわりはない。「対立からもやい直しへ」という地域の融和・再生の時期に調査を開始し、水俣を「響き合うモノと語りの歴史人類学」で描こうとする下田は、語りを連なりにおいて捉え、語り直しのプロセスにおける自己意識の変容を注視すること、そしてフィールドワークにおける「民族誌的出会い」の時間性を取り戻すことに力点を置く。

スポットをあてるのは、高濃度水銀汚泥などを封じ込めた水俣湾埋立地に佇む52体の石像と、その作り手である「本願の会」のメンバーである。「本願の会」は熊本県・水俣市と「水俣湾埋立地における石像設置に関する覚書」を交わし、「水俣病の犠牲者に配慮した記念碑的なもので、宗教色を帯びないもの」を埋立地の「実生の森」に設置することとしたが、実際は地蔵などが海に近い親水緑地に配置されてきた。なぜか。本書は答えを急がない。当事者の語りから、それが自然なことだと仄めかすのみである。

明示的な関心はむしろ、石像のモチーフや空間的な配置を読み解くことにある。「石像の建立は、個々人の記憶を『本願の会』の集合的記憶の中にうめ込み、『水俣』の歴史の束に加えていこうとする実践」であり、石像の作り手の着想や意図が対話を通して「既存の石像の参照や(差異化を伴う)模倣を促してきた可能性」が示される。他者の何に影響を受け、どんな模倣と変型を経て具象化したかは語られない。つながりや共同性といった集合的な事柄の只中に具体的な個々人としての他者は埋没し、かわりに「一人の私」が石像を通して掘り出される。祈りのかたちや魂の記憶ともいうべきものが姿を見せる。

それは、夏目漱石が『夢十夜』で描いた、運慶が埋まっている仁王を掘り出していく様に似ている。『夢十夜』では、運慶をまねて掘っても仁王が出てこないから、ついに明治の木には仁王が埋まっていないと悟り、だから運慶が現在まで生きているのだと解かったのだった。

水俣の石にはどんな「水俣の魂」が埋まっていたのだろう。下田は、「自分は『魂』があることをあたりまえのこととして教わって育ってきていない。けれども、ここで引き受け、引き継がないと、これから先にはまるで伝わらない。他にもあるであろう先人たちの本当がそっくり葬り去られてしまうような気がするのである。『水俣の魂』って何だろう。何を次の世代に残せばいいのだろう」という問いを拾う。「水俣病をめぐる過去は決して過ぎ去ったことではなく、現在も継続するものとして経験されており(略)水俣病の一元的な歴史化に抗し続けている。それは(略)水俣なりの『希望の方法』といえるかもしれない」と論じる。

石像というモノは単なる客体ではない。ひらがなの「もの」が物であり者であると同時に、「いきもの」「もののけ」を意味するように、「日本語の『もの』には、生命と物質を切り分ける発想がそもそも認められない」。そこから「モノと語りの歴史人類学」から「『もの』の歴史人類学」が構想される。

もちろん、現在も続く水俣病の訴訟は、水俣病を「歴史」と呼ぶことに抵抗し、「過去に起こった物語」に回収することを許さないだろう。固有名詞で描かれてきた語り手が、本書では匿名のイニシャルで描かれることに戸惑いを覚えないわけでもない。しかし、若い世代が水俣を「歴史」として引き継ぐときに、歴史は移ろわなければならないのかもしれない。新たな方法から生まれる豊饒さを期待したい。
この記事の中でご紹介した本
水俣の記憶を紡ぐ/慶應義塾大学出版会
水俣の記憶を紡ぐ
著 者:下田 健太郎
出版社:慶應義塾大学出版会
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年1月12日 新聞掲載(第3222号)
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