岩野卓司・澤田直対談 「共にあることの哲学と現実」(書隷心水)刊行を機に 資本主義の暴力の前で「共同体」について考える|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年1月19日 / 新聞掲載日:2018年1月19日(第3223号)

岩野卓司・澤田直対談 「共にあることの哲学と現実」(書隷心水)刊行を機に
資本主義の暴力の前で「共同体」について考える

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二〇世紀の知の世界に大きな影響を与えたフランス現代思想。フーコー、ドゥルーズ、デリダ等々、彼らの思想を受け継ぎ、未来に向けて生かしていくことは可能か。
そのような問いを投げかけつつ、「共にあること(共同体)」について考える論集『共にあることの哲学と現実』が刊行された。編者の岩野卓司氏と、執筆者の澤田直氏に対談をしてもらった。

(編集部)
第1回
ブランショとナンシー

岩野 卓司氏
岩野 
 二〇一六年四月に出版した『共にあることの哲学』につづいて、今回『共にあることの哲学と現実』が刊行されました。前者が理論編、後者が実践編という位置づけで、二冊で一括りの書物になっています。今日は、三つの点について話し合っていきたいと思います。まず、今なぜ共同体論、共にあることが問題になるのか。次に、どうしてフランス現代思想を問題にしたいのかということ。三点目は、理論編だけではなく実践編を編んだことについてです。最初の問いから順に議論をすすめていきます。

今の時代、資本主義が大変強くなっていますよね。その結果、非正規雇用の問題が出てきたり、貧富の格差も広がっています。一昔前、共産主義が倒れた時は、自由主義を謳歌するような形でのネオリベの思想が、斬新なものとして認められていました。しかし、それが必ずしもうまくいっていない。行き過ぎた資本主義のあり方が問題となる一方で、無縁社会や人間の孤立が進み、色々な面で人間関係が崩れてきている。また生殖医療の発展に伴い代理出産等も可能になり、LGBTを尊重する考え方も一般化し、家族のあり方そのものが変容しています。そのような状況を前にして、やはり人間関係をもう一回問い直さなければいけないのではないのか。

他方、世界情勢に目を向けてみると、イスラム過激派のテロに代表されるように、ある宗教的な共同体と別の共同体とのあいだで、非常に関係が悪化している。それは国家レベルでも仲が悪いし、移民問題も含めて、様々なレベルで争いを引き起こしているわけです。その意味でも、共同体についてもう一回考えなければいけない時がきている。もうひとつ。これは技術・ツールの発展によるものではありますが、インターネット社会において、特にSNSなどの急速な普及により、そのことが逆に人々の孤立を招いてしまったところがある。AIの発展もこれに拍車をかけている。この問題についても、根本においては「共にあること」について考えていく必要があります。

そこで、ひとつの導きの糸として考えたのが、モーリス・ブランショとジャン=リュック・ナンシーが、それぞれの仕方でバタイユの共同体論を読み直そうとした試みでした。具体的には、一九八三年に出版されたブランショの『明かしえぬ共同体』とナンシーの『無為の共同体』です。共産主義が没落していく時代に反して、ふたりは二冊の書物を通して、「共同体(communauté)」「共同の(commun)」「交流(communication)」といった概念のレベルから、もう一回コミュニズムやコモンについて根本的に考えようとしたわけですね。同時に彼らは、財産の共有といった側面からではなく、もっと深く人間の交わりからこの問題に向き合った。強力に利潤を追求する資本主義社会の中で、ブランショとナンシーの知的試みが、共産主義とは違う形でコミュニズムの可能性を問い直す材料になるんじゃないか。それで湯浅博雄さん、澤田さん、私の三人で、二〇一四年五月、日本フランス語フランス文学会で発表したものが、今回の二冊の出発点にあります。
澤田 
 岩野さんが「共同体」という問題設定に関して、明快にまとめてくださったので、私は少し別の側面から話したいと思います。まず共同体という言葉について、人によってイメージがかなり違いますし、結構わかりにくい。もちろん、単なる人の集まりを意味するのではなく、コミュニケーションや共産主義の問題まで含めて広いネットワークに裏打ちされた言葉です。ただし、それはあくまで、ある程度学問的な訓練を積んだ人たちにとっての共通理解です。そうではなく、一般的なところで共同体を考える時には、何を思い浮かべるのか。「身近な仲間」と考える人もいれば、もっと広く、アジアの共同体みたいなレベルで考える人もいる。そのように捉えどころがなく見える言葉が、ヨーロッパ言語ではcomという接頭辞を持つ他の言葉のネットワークのうちで機能している。この点を常に意識することが、共同体を考える際には重要かと思います。

そこを踏まえた上で、改めてなぜ共同体なのか。実は哲学の領域では、共同体自体がテーマになることは非常に少なかった。哲学が問題にしてきたのは、国家や社会、それに対峙する個人です。目に見える中間的な、自分が所属している集団である共同体については、きちんと考えてきたのかというと、そのような著作は、すぐには思い当たらない。国家論や社会論、集団論というものはあったけれど、それを共同体という言葉で考えてきたものは少なかったと思います。しかし岩野さんがいわれたように、八〇年代のフランス現代思想の中でフォーカスが当たった。それはなぜなのか。当時は一方で、個人という概念も揺らいでいたわけです。個人とは一体なんなのか。あるいは私のアイデンティティはどこにあるのか。それが自明ではなくなった。また逆に、自分が帰属している国家や民族集団、それもはっきりとはわからなくなってしまっていた。そういう中で、自分と自分を取り巻く世界との関係を考えてみると、既成概念では捉えられないことも見えてきた。そこでクローズアップされたのが、共同体という、一見すると古びた概念です。以前は、共同体というのは、近代に社会へと変貌する前の古い結びつきだと片付けられてしまっていたけれども、個々の人間(私)と外の世界の繋がりを考えるひとつの大きな道具になりうる。そういうことに気がついたのが、ナンシーだったと思います。もちろん、それ以前にも、バタイユやブランショが論じていたことでもあります。実際、バタイユは、コミュニケーションやコミュニティという言葉との関係で共同体について考えていた。そこから出発して、哲学的な枠組みで問題化していったのが、ナンシーだった気がします。
岩野 
 なるほど。哲学史的な流れを踏まえて話をされましたが、今回の試みは、バタイユ、ブランショ、ナンシーに収まるものではなく、レヴィナス、フーコー、ドゥルーズ、デリダといった現代思想の思想家にも話を広げています。たしかに彼らは、直接的には共同体を論じていない。たとえばデリダは『友愛のポリティックス』で、バタイユ、ブランショ、ナンシーの共同体論に対して批判的な立場を取っています。フーコー、ドゥルーズにしても、バタイユたちとはかなり立場は違います。だから、今いったような結合も、多少無理があるかもしれません。しかし、広く共同体ということで連想するものとの関係で、レヴィナスの他者論、デリダの脱構築、フーコーの権力論やドゥルーズのリゾームを捉えていくのも可能ではないのか。ただ、フランス現代思想といっても、三十年、四十年ぐらい前の古くなってしまったものでもある。我々がフランスに留学していた頃、あるいは大学時代には、彼らと共に歩いていた感じがありましたが、今はもう、同時代性はまったくない。そのような時代にあって、フランス現代思想をどう捉えるのか。あるいは、その遺産をどう引き継ぎ、今日に生かしていくのか。このことが問われていると思うんですね。
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この記事の中でご紹介した本
共にあることの哲学 フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉1 理論編/書肆心水
共にあることの哲学 フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉1 理論編
編集者:岩野 卓司
出版社:書肆心水
以下のオンライン書店でご購入できます
共にあることの哲学と現実 フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉2 実践・状況編/書肆心水
共にあることの哲学と現実 フランス現代思想が問う〈共同体の危険と希望〉2 実践・状況編
編集者:岩野 卓司
出版社:書肆心水
以下のオンライン書店でご購入できます
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