おらおらでひとりいぐも 書評|若竹 千佐子(河出書房新)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年1月20日 / 新聞掲載日:2018年1月19日(第3223号)

おらおらでひとりいぐも 書評
ことばを媒介として普遍性を獲得する体験と思考

おらおらでひとりいぐも
著 者:若竹 千佐子
出版社:河出書房新
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こんな人生でいいのだろうか。なにか借り物の生を生きているのではないか。特別不幸でもないが、なんだかさみしい。とても切実な感情だ。切実なのだけれども、それをどうすればいいのかわからない。つかみどころがない。伝えようがない。だから、手近にあるありあわせのことばを使って気を紛らわせる。消化不良感や身体の内から衝きあげてくるエネルギーをもてあましたまま、なんとなく日々がすぎていく。

こんな経験をだれもがしているのではないか。本書の主人公、桃子さんも同じだ。同じだった。桃子さんは、東京オリンピックの年に家出同然で東北から上京した。結婚し、妻として母親として生きた。夫を亡くして十五年、七十四歳になり、すでに所帯をもつ子どもたちとも疎遠になっている。「うんと良くもねが、さりとてうんと悪くもね、それなりだぁ」そんな人生。しかし桃子さんはいま、自分の人生の意味をはっきりととらえている。そしてそれをしっかり肯定している。

その直接のきっかけとなったのは「心が打ち震え揺さぶられ、桃子さんを根底から変えた」夫の死だ。しかし、体験そのものからは意味は生じない。意味を生じさせるのはことばである。とりわけ桃子さんにとっては東北弁だった。ただ、手あかのついたことばで漠然と独白をしていても、意味にはたどりつかない。桃子さんの声は多元的で対話的だ。「おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる」

この多数の声は桃子さんの声であって桃子さんの声ではない。「たしかにおらの心の内側で起こっていることで、話し手もおらだし、聞き手もおらなんだが、なんだがおらは皮だ、皮にすぎねど思ってしまう」。それぞれが独立していて、「んだんだ。それそれ。いや違うでば」と互いに対話する。「性別不詳、年齢不詳、おまけに使う言葉もばらばら」な、真に多元的、多声的な対話。それによって思考が耕され、問いが深められて、「桃子さん本体」は自分の知らなかったところへ連れていかれる。連れていかれた先は、桃子さんの“皮”にもはや収まらない、大きな広がりのある場所だった。

桃子さんという人称は三人称だが、桃子さんは同時にわたしでもあり、あなたでもある。彼女でもある。桃子さんにとって「最古層のおらそのもの」である東北弁は、桃子さんのことば、東北のことばであるのと同時に、おそらくは人類の最古層にもつながることばである。ことばは個人の枠内に収まらない。その本質から共同性をもつ。だから、桃子さんは「なんというか際があいまいになっていく」「体の表面が限りなく薄くなって境目がなくなって、おらはほどけでいぐ」。きわめて個人的な桃子さんの体験と思考が、ことばを媒介として普遍性を獲得する。桃子さんは、桃子さんであるのと同時に、読者でもある。同時代を生きた人々でもある。さらには、過去と未来の生命にも連なっている。郷里、恋愛、結婚、死別、老い、親子、病気、孤独、愛、自由――あたりまえの生に含まれる切実な意味が解きほぐされて、わたしたちのなかの桃子さんとつながる。読み終えて本を置くときには、すこし世界が違って見え、すこし生を肯定できるようになっているはずだ。そして自分のなかで対話をはじめる多数の声が聞こえてくるにちがいない。
この記事の中でご紹介した本
おらおらでひとりいぐも/河出書房新
おらおらでひとりいぐも
著 者:若竹 千佐子
出版社:河出書房新
「おらおらでひとりいぐも」は以下からご購入できます
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