ギリシャ語の時間 書評|ハン・ガン(晶文社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年1月20日 / 新聞掲載日:2018年1月19日(第3223号)

ギリシャ語の時間 書評
魂の囁きを描ける作家 
深い孤独の中にある思いを描ききる

ギリシャ語の時間
著 者:ハン・ガン
出版社:晶文社
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ギリシャ語の時間(ハン・ガン)晶文社
ギリシャ語の時間
ハン・ガン
晶文社
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魂の叫びを描きたがる作家は大勢いる。でも、魂の囁きを描ける作家はそんなに多くはない。わたしがその代表と思っているのが、アメリカの作家レアード・ハントだ。

精神を少し病んでいて、過去や未来を幻視する能力を持ったノアという名の老人を主人公にした『インディアナ、インディアナ』。南北戦争が始まる前、たった十四歳でこの世の地獄のようなところに嫁いだ少女の物語『優しい鬼』。レアード・ハントは、つらい境遇にある者や、そのことで決定的に心を損なわれてしまった者が発する、小さな小さな声に耳を傾け、それを、詩的だけれど抒情や感情に流れない端正な筆致で読者に伝えるのだ。

当方の海外文学体験が浅いせいもあるかもしれないが、これまでレアード・ハントほどの“声”の持ち主に、わたしは出会ったことがなかった。ところが――。マン・ブッカー国際賞という大きな文学賞を、アジア人で初めて受賞した韓国の作家ハン・ガンの『ギリシャ語の時間』を読んで、自分の無知に恥じ入ることになる。こんな近くの国にいたのか、魂の囁きを描ける作家が、と。

主人公は2人。視力を失いかけている古代ギリシャ語の男性教師と、言葉を失っている女性だ。自分に失明の運命という遺伝子を与えた父親の仕事の都合で、十四歳でドイツに渡り、三十歳で独り韓国へ帰国した男。十六歳の時に一度失語症にかかり、離婚した夫に幼い息子をとられ、今また自分の中から言葉を閉め出してしまった女。

物語は、今は使われることのなくなった古代ギリシャ語の文法ならびにプラトン哲学を男が教える教室での出来事を描いた短い章と、男が十六歳の時に愛したかつての恋人や妹にあてた手紙、三十六歳で亡くなったドイツ時代の親友への思いを綴る中、男の来し方がじょじょに浮かび上がってくるパート、女が言葉を失った経緯や息子に対する愛、彼女のシンプルきわまりない生活を描くパートによって成立している。二人に共通しているのは、孤独だ。読んでいると、こちらの胸が苦しくなってくるほど、その孤独は深い。

自分が発した軽はずみなひと言で、手ひどい拒絶を受けて失ってしまった若き日の恋。親友の自分への想いを知った動揺から、彼を遠ざけてしまった悔いに覆われてしまっている友情。近い将来すべての光を失う運命を、たった独りで迎えることを受け入れている内省的な日々。

子供をとられたショックから失語症になったと決めつけるカウンセラーに対する、〈違います〉〈そんなに簡単なことではありません〉という紙に書かれた回答。くたくたになって夢も見ないほど深い眠りにつくために、歩きに歩く夜の街。〈和解できないものたちがいたるところに〉ある世界に対する諦観。自分にとっては〈鎧をまとって、むきだしの体に針のように刺さって〉くる言葉たち。

それぞれに背負った宿命と過去のいきさつと性格によって、それぞれに深い孤独の中にある二人の思いを、魂の囁きを、作者のハン・ガンは(訳者の斎藤真理子は)、詩のように美しく形而上的で、かつ読者の心に直接語りかけてくるような芯のしっかりした文章で描ききることに成功しているのだ。

物語終盤、同じ教室内にいながらも、なかなか交わらない二人の孤独が、ある出来事によって共振する。全二十一章の後に置かれた第0章で、二人の物語はようやく始まるのだ。それが、どうか平坦で、つまづくような石のない、陽が暖かくさす道であるようにと、わたしは静かに祈らずにはいられない。(斎藤真理子訳)
この記事の中でご紹介した本
ギリシャ語の時間/晶文社
ギリシャ語の時間
著 者:ハン・ガン
出版社:晶文社
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