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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年9月9日 / 新聞掲載日:2016年9月9日(第3156号)

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期待を裏切る至高のタブロー バタイユによるマネ論


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本書は、ジョルジュ・バタイユが一九五五年に発表したエドゥアール・マネ論の全訳である。このマネ論には、すでに故・宮川淳による名訳がある(『沈黙の絵画――マネ論』二見書房)が、本書はそれを踏まえた新訳である。

バタイユがマネについてのモノグラフィーを著したのは、金銭問題が深刻で首が回らず、急いで金を稼ぐ必要に迫られたからだと聞いたことがある。蕩尽の思想家は私生活でも金払いがよく、コツコツと蓄財に励むタチではなかったそうだが、一九四〇年代も終わりに近づく頃には妻と娘を養う生活も相当苦しかったらしく、一度は離れた図書館員の職に戻るなどして収入源の確保につとめている。そうした事情を思い浮かべるなら、カラー図版複製で評判を高め、個人的にも戦前からつながりのあったスキラ社から(ラスコーの洞窟壁画論に続けて)一般読者向けのマネ論を出版するという話が、バタイユにとって渡りに船だった可能性は大いにある。

ただだからといって、マネという主題が『眼球譚』の著者にとって金策の口実にすぎなかった訳では決してない。バタイユは第二次大戦前からマネについての本を書こうと構想していたようだ――そう記しているのは『G・バタイユ伝』(河出書房新社)のミシェル・シュリヤだが、言われてみれば然もありなんという気がする。『マネ』の草稿にあるとおり、バタイユは非常に若い頃から画家のタブロー(特に<オランピア>)に惹かれるところがあったらしいし、一九二七年から二八年にかけては、勤務先の国立図書館からマネに関する書物を次から次へと借りだしている。どうやら、マネについての解説書(共著)を準備中だった従姉妹のマリー=ルイーズ・バタイユに又貸しするのがその目的だったようだが、そうした書物や従姉妹の仕事が、画家に対するジョルジュの興味をかき立てたことは想像に難くない。彼は事実その数年後、自分が編集長を務める『ドキュマン』誌に、マネと当時の美術批評に関するマリー=ルイーズの論考(署名はマリー・エルベとなっているが)を掲載している。『マネ』の構想が戦前に遡るのが事実だとすれば、一九三〇年前後に訪れたこうした「マネ熱」がその原点だったとみてほぼ間違いなかろう。

むろん三〇年代にありえた構想が、そのまま五〇年代の書物の中に引き継がれたなどとは考えられない。事実『マネ』における絵画作品の分析は、戦前に不充分なかたちで展開された芸術論よりも、『マネ』とほぼ同時期に執筆された(ただし生前に出版されることはなかった)『至高性』(人文書院)の論述と強く結びついている。バタイユはそこで欲求と欲望を明確に区別し、前者が生存に不可欠なものを充足しようとするのに対し、後者はむしろ、必要性に縛られた状態から解放され、至高な生へと滑り行く瞬間――合理的な結果への期待が裏切られ、「何ものでもないもの」のうちに解消されてゆく奇蹟的な瞬間――を対象としていると述べる。バタイユはこうした瞬間の例として、古代社会における王の現前や神秘家たちの語るエクスタシス、またエロティックな体験における「小さな死」の瞬間を挙げているが、彼にとっては芸術もまた、期待の外へと連れ去られる瞬間の欲望に応えるものとして定義される。「芸術とはつねに望外のものへの、ある種の奇蹟へのこの上もない希望に呼応するものなのだ。」

バタイユが『マネ』において強調しているのは、こうした希望に知らず知らずのうちに応えようとした画家の配慮であり、そのために行った「操作」の数々である。<オランピア>においても<草上の昼食>においても、マネは、ひとが主題から期待するものをあえて描かず、そのことによって鑑賞者の期待を裏切る。バタイユによれば、そうした期待の裏切りこそがマネの絵画を一様に特徴付けており、それらに――他の印象派の作品にはない――平手打ちの威力を与えているのだ。バタイユがアンドレ・マルローの芸術論に対してアンビヴァレントな態度を崩さないのも、マネ作品のこのような特質が見過されていると考えるからだ。マルローが言うように、主題への無関心が始まるのはマネからであり、それゆえマネを近代絵画の出発点に位置付けるのは正しい。ただマネは、後続の画家ほど主題の選択やその意味作用に無頓着ではない。期待の裏切りが期待のないところに生じ得ない以上、鑑賞者が一定の答えを期待するような主題を選ぶ必要があるからだ。要するに、マネは主題への無関心を装いつつその効果を軽視しないのであり、そのことによって期待が「何ものでもないもの」のなかに解消する瞬間を出来せしめようとしたのである。

江澤健一郎による翻訳は、宮川訳では割愛されていた年譜や簡略書誌のみならず、刊行版と草稿の細かい異同まで訳しきった労作である。巻末にはバタイユが言及している全作品の美しい図版が収録されており、ときとして分かりづらいバタイユの記述を追う助けになる。マネに魅了された作家・思想家はひとりバタイユだけではない。本書はバタイユ作品への恰好の入口になると同時に、画家をめぐるさまざまな思索に触れるきっかけとなるのではないか。(江澤健一郎訳)
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