ヴィーコ論集成 書評|上村 忠男(みすず書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年2月3日 / 新聞掲載日:2018年2月2日(第3225号)

史家はヴィーコから何を学べるか 
――研究の集大成――

ヴィーコ論集成
著 者:上村 忠男
出版社:みすず書房
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本書は上村のヴィーコ研究の集大成である。文献学的検討を基礎にして、時間・空間的に距離のある思想家たちの比較というダイナミックな観点からヴィーコが論じられている。ヴィーコ思想の内容に関しても、インヴェスティガンテとの関係のみならず、キリスト教神学とヴィーコの関係を深めている点で、日本におけるヴィーコ研究のなかでも最高水準に属するといっても過言ではない。第一部は概説的内容、第二部は専門的研究、第三部は雑録という構成である。

まず、本書の採用している解釈の方法について述べる。上村の思想解釈は様々な時代や分野の研究者を鳥瞰的に見渡し、共通点を発見して、掘り下げていくという形式をとる。例えば上村はヴィーコの思想をレヴィ=ストロース、本居宣長、フッサール、ガダマー、南方熊楠などの思想家と比較している。論考「ヴィーコのサイード」で、サイードにおけるヴィーコが、縦に一直線に繋がっているものや連鎖をなしているものよりもむしろ、横並びになっているものや分散しているものを強調していると述べられているのも偶然ではない。

つぎに、内容面で注目に値する論文「ヴィーコのゼノン」について触れる。というのも、この論考はヴィーコのキリスト教神学への傾倒という上村の強調する視点から、ヴィーコとデカルトの対決という哲学上の重要な出来事を論じているからである。この中で、上村はヴィーコがゼノンに託して行なっているデカルト批判の内容を再構成している。これにより、読者はデカルトとヴィーコの思想的位置関係を知ることができる。通常、北のデカルトと南のヴィーコというように対置される二人だが、実際の関係は単純な対立とは言えず、上村はこの点をデリケートな分析によって解明してみせる。上村によれば、ヴィーコはデカルトが主張するような「もろもろの不等な運動」や「事物の延長」の基底には「無限定な力」がなければならないと考えていた。そして、この「無限定な力」こそデカルト的世界を作り出しているというのである。

以上のように、上村のヴィーコは、デカルトにおいてもなお創造主としての神を否定することはかなわないと主張する。しかも、この考えは思想的「大転換」を経たあとの『新しい学』におけるヴィーコにも見られるという。なるほど、ヴィーコ思想を俯瞰している本書第一部の論旨も「真理の規準は当の真理自体を作り出したということである」という命題が、実のところ、キリスト教神学の伝統に根ざしているものであるとしている。

このように、本書は上村の解釈を理解する上で不可欠の諸作品が収録されているだけでなく、上村の思想の軌跡を追い発見術的なアプローチから、読者も思いがけない着想をすることができるかもしれない、そんな可能性を秘めた本でもある。

キリスト教神学に寄り添いながらも結果的にヴィーコは文献学によって人間に普遍的な構造に達するが、冒頭で挙げた人物の中に南方や本居が含まれていることから分るように、この普遍的な構造へ切り込むのにはなにもキリスト教信者でなくとも可能なようだ。上村によればそのときに注目すべきなのが「通常クロノロジカルな歴史研究の手続きによっては明らかにしにくいこと」である。上村はテクストに内包されている「潜在的可能性」を明らかにするには、ときには時間や空間の「飛躍」が奨励されてしかるべきであると述べる。この主張の背後には、上村のヴィーコ論の出発点となったフッサールの思想がある。すなわち、「わたしたちの現在やあらゆる過去ないし未来の歴史的現在のうちに横たわっている本質的に普遍的な構造を露わにすること」である。生真面目な実証史家には勇気が要って重いが、取り組むに値する課題かもしれない。
この記事の中でご紹介した本
ヴィーコ論集成/みすず書房
ヴィーコ論集成
著 者:上村 忠男
出版社:みすず書房
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