柴田元幸氏インタビュー 小説の良さを伝える翻訳 『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年2月9日

柴田元幸氏インタビュー
小説の良さを伝える翻訳
『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)刊行を機に

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第3回
権威や教養と無縁なのがいいという意識

柴田 
 村上春樹さんが、良い音だと思わせるアンプは良くない、良い音楽だと思わせなきゃいけない、それと同じで良い翻訳だと思わせるんじゃなくて良い小説だと思わせなきゃいけないんだと言っていますが、自分にそれができているかどうかはともかくとして、目指してはいます。自分を消すということですね。この小説の場合、漢字の使い方だとかで、自分を消すどころか翻訳者が変なことをやってるなというのがまずは見えると思うんですよ。読者がそれを読み進めているうちに、だんだん翻訳者の存在を忘れて物語にのめり込んでくれるか、それともいつまで経っても翻訳者が邪魔だと思い続けるかは本当にわからないですが、やっぱりここまでやらないとこの小説の良さというか独自性は伝わらないだろうなと思います。 

――そのようなお話を伺うとどこまでも深読みしていきたくなりますが、一方でこの小説が始まる前に置かれている一文には、著者の命による兵站部長G・Gの「告」として、「この話に主題を探すものは起訴される。教訓を探すものは追放される。構想を探すものは射殺される。」とあります。つまりテーマだのなんだのといったものをこの物語に求めるなということが強調されていますね。
柴田 
 ええ。20世紀なかば、トマス・ピンチョンが最初に『V』という作品を発表した時に、自分についての研究書のたぐいは一切出さないという契約を出版社と交わしています。まあデビュー作から自分についての研究書が出されるのを前提として言ってるのもすごいと思うんだけど(笑)、小説が研究者の批評的な言質で固められてしまうことに対する嫌悪は理解できますよね。それと同じようなことをマーク・トウェインはもうちょっとひょうきんなかたちでやっていると言えばいいでしょうか。19世紀はそこまで文学研究は進んでいないけど、代わりになんでも教訓にまとめようとするヴィクトリア朝教訓主義があったので、そういうのはすごく嫌だったと思うんです。

――あれこれと深読みされたり研究対象となったりすることを彼自身が非常に嫌ったということでしょうか。トウェインは自伝を書きながらも、自分の死後百年が経つまではそれを公開しないことと命じてもいますね。
柴田 
 簡単に言うと自分が偉い人になることに躊躇があったんじゃないでしょうか。たとえば日本でキャリア的に一番似ている人というと筒井康隆さんで、筒井さんは最初は大衆小説的な媒体から出てきて、ある時期から純文学の作家たちとの交流も増えて、純文学系の文芸誌にも作品が載るようになった。マーク・トウェインもそれと似たようなところがあって、最初は新聞にしょうもないギャグみたいなことばっかり書いていたんだけど、当時の文壇のドンと言われたウィリアム・ディーン・ハウエルズといろいろ仕事をするようになった。マーク・トウェインはそうやって大御所になったことにある種の照れみたいなものがあったと思うんですよ。それはやっぱり健全な気がします。アメリカ文学自体がヨーロッパの洗練に対して野蛮とか無知とかいったものを価値として打ち出していて、マーク・トウェインもそういう文脈のなかで、むしろ権威とか教養とかと無縁でいるのがいいんだという意識はあったと思うんです。実際、初期のしょうもない話とか、いま読んでも独自の輝きがあると思うので、新潮文庫でトウェイン傑作選を組んだときはそっちに重点を置きました(『ジム・スマイリーの跳び蛙』)。

――いま「照れ」という言葉も出てきましたが、物語の後半、逃亡奴隷として捉えられたジムをハックが助け出そうと心を決めた途端、親友のトム・ソーヤーが登場して物語を引っ掻き回すところですね。解説で柴田さんはそれを「茶番劇」と書かれています。この「茶番劇」をあえて物語の最後に持ってきたのは、ある意味ではマーク・トウェイの照れのようなものもあるのでしょうか。つまりハックがジムを助け出そうと決心して、さらに彼一人で助けてしまったらハックはたんに英雄になってしまう。
柴田 
 倫理的に正しい人になってしまうんですよね。ハックの決断の値打ちはこの茶番劇によってどんどんすり減っていくわけです。やはり英雄として謳い上げて終るのはマーク・トウェインも嫌だったろうし、あそこで終わったらあの小説の魅力はかなり失せるんじゃないかと思います。

――同時にトム・ソーヤーも非常に頭の良い少年として描かれるのではなくて、どちらかというとある意味では愚者のように描かれています。物語を引っ掻き回す存在であって、彼自体も英雄であるとか立派な存在としては描かれていません。
柴田 
 そうですね。ようするにトム・ソーヤーにとってはヨーロッパが規範なわけです。彼はとにかく何でもこれは本に書いてあるんだからと言いますが、この本というのはイギリスのウォルター・スコットだとか、フランスのデュマだとかそういったヨーロッパの文学なわけです。それをありがたがる姿勢のトム・ソーヤーをマーク・トウェインはさんざん茶化しているわけですが、あそこまで茶化すともうどちらでも良いことなのかなというふうに思えてくる。あれが適度な茶化し方だと「正しい人マーク・トウェイン」というのが出てきちゃうと思うんです。あそこまでやると、トウェイン自身も自分のやっていることがコントロールできなくてずるずる続けてるような感じになって、安定した確固たる位置から確固たる価値観を持った人が他人を裁いているという感覚が薄れる。そこが良いのかなと思うんですよね。
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この記事の中でご紹介した本
ハックルベリー・フィンの冒けん/研究社
ハックルベリー・フィンの冒けん
著 者:マーク・トウェイン
翻訳者:柴田 元幸
出版社:研究社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月9日 新聞掲載(第3226号)
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