柴田元幸氏インタビュー 小説の良さを伝える翻訳 『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年2月9日

柴田元幸氏インタビュー
小説の良さを伝える翻訳
『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)刊行を機に

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第6回
『ハックルベリー・フィンの冒けん』が生まれるまで

「柴田元幸がいちばん訳したかったあの名作、ついに翻訳刊行。」

このコピーを社内の会議で発表したところ、誰もが震えあがった。あの稀代の名翻訳家の代表作をわが社からだって?

研究社は英語の辞書や研究書、学習書で知られる出版社であって、翻訳書をまったく出していないというわけではないが、本格的なアメリカ文学の翻訳書となると、実に四〇年ぶりとなる。

もちろん、これは突然出てきた企画ではない。柴田氏には二〇〇三年に『ハックルベリー・フィンの冒けん』の研究社からのご刊行をお約束いただいている。ではあるが、柴田氏はご存知の通りたくさん仕事を抱えていたうえ、この『ハック・フィン』に関しては並々ならぬ思い入れがあるようで、じっくり時間をかけたいとのことであった。そこで、当初予定した二〇〇七年の研究社一〇〇周年の記念刊行は見送り、特に締め切りを設けず、柴田氏の準備ができるまでお待ちすることにした。

それから三年、五年、七年とたち、そのあいだも柴田氏はほかの媒体でこの作品の抄訳を発表していたが、全訳の刊行にはいたらなかった。

ところが、もう一冊別の本が動き出すことで、柴田氏とハック・フィンの筏の旅は一気にスピードを上げ、わたしたちの前に突然その姿を見せてくれることになった。

二〇一五年の十一月、柴田氏が精力的に作品を翻訳している作家の一人レアード・ハント氏が来日し、作家の古川日出男氏が主催する文芸学校「ただようまなびや」に講師として参加、ワークショップ「英語で物語を書く」を開講した。郡山で開かれたこのワークショップに、わたしが都内の書店で開催している翻訳教室の受講生二人が参加し、そのすばらしさを話してくれたのだ。これを聞いてわたしはハント氏と彼のワークショップに興味を持ち、来日中に彼に時間をとってもらい、『英文創作教室』の企画を打診した。ありがたいことに本人からは同意を得たものの、この企画を形にするには言うまでもなく柴田氏に全面的に舵取りをお願いせねばならない。柴田氏にそれをお願いに上がり、久しぶりに――おそらく二〇〇三年刊行の『サロン・ドット・コム 現代英語作家ガイド』以来――仕事のお話を聞いていただいたところ、同氏は『英文創作教室』の編訳者となることを引き受けてくれたばかりか、いい機会だから『ハックルベリー・フィンの冒けん』も同じころに刊行しませんかという当方の誘いにも同意してくれたのである。こうして、『英文創作教室』も『ハックルベリー・フィンの冒けん』も研究社創立一一〇周年の二〇一七年に刊行できることになった。本書の刊行時期が決まると柴田氏は一気に全訳を完成させ、昨年九月三日に『ハックルベリー・フィンの冒けん』の翻訳全データがわたしのメールボックスに届いた。

柴田氏の原稿を拝見する編集作業は至福の時であった。わたしは翻訳への関心が高く、二〇〇七年には柴田氏の大学院生時代の指導教官にあたる渡辺利雄氏の研究の集大成『講義アメリカ文学史【全3巻】』を刊行するなど、アメリカ文学者との付き合いも多いが、今回の『ハックルベリー・フィンの冒けん』に関しては、柴田氏以外にはとてもできない大変な仕事と言える。試しに次の英語を見てほしい。

“( . . .) Sometimes dey’d pull up at de sho’ en take a res’ b’fo’ dey started acrost, so by de talk I got to know all ’bout de killin’. I ’uz powerful sorry you’s killed, Huck, but I ain’t no mo’ now.”

これは八章の逃亡奴隷ジムの言葉である。標準英語から遠く離れた、だが豊かな詩情とユーモアをたたえたこの英語の意味を完璧に理解したうえで、次のような伸びやかな日本語にできる翻訳者がほかにいるだろうか?
「(……)岸でとまってひとやすみしてから出かけるボートもあるんで、それきいてるだけで、おれもさつじん・・・・の話がひととおりわかっちまったのさ。あんたがころされて、おれすごくかなしかったよハック、でももうかなしくないよ」

『ハックルベリー・フィンの冒けん』の最大の魅力は、これと同じようにハックの語りも正しい英文からはほど遠いものの、だからこそその言葉が伸びやかさや力強さをもち、まったく意識しないおかしさや皮肉、詩情が表現されることである。柴田氏はこの特色を日本語で再現するために、まずは原文を一〇〇%理解したうえで、この「間違っているが、魅力的」な語り口を日本語で再現しようとした。柴田氏は本書「解説」で次のように述べている。「……そうした楽しい間違い方を翻訳でどこまで再現できるかとなると、これはどうにもおぼつかない。一般に翻訳において、誤りを誤りのまま訳すのは非常に難しい。読者から見て、原作者が意図的に盛り込んだ誤りなのか、単に訳者が間抜けなだけなのか判定が困難であり、つねに隔靴掻痒の感を免れないからだ。したがって、本書を訳すにあたっても、誤りを誤りとして再現することは原則として試みず、あくまでハックが使いそうもない語彙を極力回避し、かつ、『ハックにこの漢字が書けるか?』とつねに自問しながら訳し進めることをとおして、語りのリアルさの再現をめざした。ハックはまったくの無学ではないし、学校に行けばそれなりに学びとるところもあるようだから(まあ六七ろくしち=三十五と思っているみたいですが)、もし漢字文化圏の学校に通ったとしたら、字もある程度書けるようになって、たとえば「冒険」の「険」は無理でも「冒」は(横棒が一本足りないくらいのことはありそうだが)書けそうな気がするのである」

そしてご自分で「ハック用字用語表」を作り、翻訳の作成、ゲラ校正を念入りに進めたのである。

実は「冒けん」のタイトルには当初社内で異論も出された。この作品はどの訳も「ハックルベリー・フィンの冒険」の書名で出版されているし、「ぼうけん」なら児童文学書として売り出せるが、「冒けん」では読者が違和感を持つだろうというのが反論のおおよその理由だった。しかし「『これは何?』という違和感が読者を引きつけるパワーを生み出すし、これまでにない『ハックルベリー』を打ち出そう」との編集部長の判断により、このタイトルで柴田訳ハック・フィンは刊行されることになった。発売直後の『読売新聞』一月十五日夕刊掲載のインタビュー記事で、柴田氏は「僕が死んだら、この本を代表する仕事に挙げてほしい」とコメントしているが、これは研究社にとっては大変な名誉である。

幸いなことに売れ行きは大変好調で、発売後五週間で三刷となった。今後も社に類のない一冊として販促につとめたい。(かねこ・やすし=研究社編集部)
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この記事の中でご紹介した本
ハックルベリー・フィンの冒けん/研究社
ハックルベリー・フィンの冒けん
著 者:マーク・トウェイン
翻訳者:柴田 元幸
出版社:研究社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月9日 新聞掲載(第3226号)
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