大連市における大典奉祝仮装行列|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読写 一枚の写真から
更新日:2018年2月20日 / 新聞掲載日:2018年2月16日(第3227号)

大連市における大典奉祝仮装行列

このエントリーをはてなブックマークに追加
写真は大正四年十一月十日の御即位式当日に於ける大連市の大典奉祝仮装行列にして児島高徳の山車を曳き市中を練り歩く光景である。(『写真通信』大正五年二月号)

写真が少し薄いので、どれだけ映像がはっきり見えるか不安もあるが、珍しい記録なので取り上げた。

大正四(一九一五)年十一月十日、大正天皇の即位式が執り行われた。明治天皇は東京で即位式を挙げたが、その後に定めた皇室典範にのっとって京都御所とされ、大正天皇はお召列車で東京駅を出発した。皇后は懐妊中で同行していない。東京駅は前年十二月に開業した。本来は即位式に合わせて完成させたものだったが、明治の皇后「昭憲皇太后」が亡くなったために一年延期になっての大礼だった。

「可成簡略なるを望ませらるゝ」(『原敬日記』)という新天皇の意向は取り入れられず、「今回ノ大嘗祭(即位礼に続く)ノ如ク莫大ノ経費ト労力ヲ給与セラレシコトハ全ク前代未聞」(柳田國男『大正天皇』原武史著より)と膨れ上がり、東京駅前、途中一泊の名古屋、迎える京都では仮装行列を繰り出し、天皇の車列を見るために群衆が殺到し、日本列島の北から南さらには植民地だった台湾の高雄にいたるまで万歳の声が響いたという(前出)。

この写真は、日本でも植民地でもない「満州の大連」の同日に行われた祝賀行列である(『写真通信』大正五年二月号)。「満州」へわたった初期の日本人が、このように盛大に天皇の即位式を祝った映像記録は、あまり見当たらない。記事によれば、「児島高徳の山車」をひいているところだ。周囲の群衆はほとんど日本人で、その背後に中国人の姿が見える。児島高徳は、南北朝期の武将で島流し途中の後醍醐天皇を励ましたとして、小学唱歌にうたわれた人気の忠臣だ。

記事のなかに、気になる表現がある。

「この大連の地は日清戦争以来忠勇なる幾多の将卒の血を以て得たる記念の地」という一節は、「満州」に対する日本の世論を端的に表していた。

大連は、日清戦争後に列強から受けた「三国干渉」の代償として、ロシアが清から租借して街をつくったものを、日露戦争の講和で日本がロシアから譲り受け、ダルニーのロシア名を大連に変えていた。「屈辱の外交」を「勝利」で晴らしたという感情が、大連に対する日本人のおおかたの見方にあった。

「満州は日本の生命線」というキャッチフレーズが、やがては満州国をつくり、悲惨な開拓民たちの逃避行につながるのだが、日露戦争からまだ十年しかたっていないこの時期の日本人は、それが他国への侵略だという罪悪感はなかったのだ。

日露戦争直後の明治四十一(一九〇八)年に五万八千四百三十三人だった「満州」在住の日本人は、この写真の大正四年には十万千五百八十六人と倍増、その四〇%が大連に住んでいた。大正四年に日本の権益は拡大し、日本人も中国人も増え続けて、大連は「満州」有数の都市になっていく(『「満州」の日本人』)。

日本は、大連を貿易都市としようと、ロシアからさらに街づくりを発展させて、道路のアスファルト舗装や、レンガ造りの建物を昭和初期まで造っていった。

たしかに、この写真にある建物も広い道路や街路樹も日本にはない。

「大連の五月は…こんなに素晴らしいものであったのか」と、これは満州で少年時代から青年期を送った清岡卓行の『アカシヤの大連』(芥川賞)の一節だが、ヨーロッパを思わせる大連の街は、日本人の「満州への憧れ」をかきたて、戦後ながらく「満州文化への郷愁」をもたらす原風景になる。
このエントリーをはてなブックマークに追加
岩尾 光代 氏の関連記事
読写 一枚の写真からのその他の記事
読写 一枚の写真からをもっと見る >
歴史・地理 > 日本史 > 近代以降関連記事
近代以降の関連記事をもっと見る >