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読写 一枚の写真から 第44回
更新日:2016年9月23日 / 新聞掲載日:2016年9月23日(第3157号)

オリンピック選手の帰朝

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西暦一九二四年の夏沸蘭西巴里の郊外コロムブに於て開催せられたる第八回万国オリンピック大会には我国よりも競技各種目の代表選手出場し其のベストを尽して技を争った。一行は野口監督澤田マネジャー以下十三名で翌二日東京に帰着した。写真は神戸港内香取丸甲板上の一行である。(『歴史写真』大正十三年十月号)

史上最多のメダルを獲得したリオオリンピック。四連覇の偉業を達成した女子レスリングの伊調馨に、国民栄誉賞が贈られると報じられた。

日本のレスリングで最初にオリンピックメダルを獲得したのは、一九二四(大正十三)年のパリオリンピックに出場した内藤克俊。フリースタイルフェザー級で銅メダルを得た。内藤選手は、このとき米国ペンシルバニア州立大学に留学中だった。

内藤がオリンピックに出場することになった背景には当時の外交問題があるが、まずはパリオリンピックの話をしよう。

この写真は、同年九月一日に、神戸港に到着した日本選手団一行、『歴史写真』大正十三年十月号に掲載されている。関東大震災からちょうど一年、オリンピックに選手団を派遣することへの影響はなかったが、「陸上競技・競泳・テニス・レスリング・五種十種」の五種目に十九名が参加して、獲得したメダルは、この一つだけだった。

「如何せん体力の相違は未だ到底欧米各国の選手に伍し難くわずかに水泳其他二三種目の競技に於いて若干の気を吐いたのみで痛ましくも惨敗した」

手厳しい『歴史写真』の記事には、銅メダルを獲得した内藤選手の活躍も名前もない。当時の新聞記事は、水泳と陸上競技に注目していた。レスリングへの関心は低かったようだ。

一九二〇年のアントワープで銅メダルを獲得したテニスは、パリ大会ではメダルに届かず、リオ大会で銅メダルを獲得する錦織圭選手の出現まで一世紀余り待たなければならなかった。

しかし、パリ大会のメンバーには、「日本マラソンの父」といわれる金栗四三、一九二八年アムステルダムオリンピックの三段跳金メダリストの織田幹雄(この時は六位)などの名があって、日本スポーツ界の未来を感じさせている。

派遣選手が決まったのは、大会が開かれるわずか三か月前のこと、七月五日からの大会は、四十五か国が参加してパリ郊外に新設されたコロンブ競技場を中心に開かれた。

この大会に影を落とした国際政治の影がいくつかある。一つは、ドイツが参加しなかったことだ。第一次大戦が終わって六年、敗戦の責任を取らされて二大会続けて参加できなかった。

二つ目は、米国で吹き荒れていた排日運動の余波で、内藤選手が選ばれたことだ。柔道二段だった内藤選手は、大学でレスリングをはじめ、全米学生チャンピオンにもなったが、一九二四年に排日移民法が施行して米国代表になれなくなり、大学長の提言を受けた駐米日本大使の推薦で日本代表になったという。日米摩擦をさけた外交的な措置が、銅メダルをもたらしたことになる。

写真に写っている日本選手団は、香取丸で帰国したのは野口監督ら十三名、日本に戻ったという内藤選手もこのなかにいるかもしれない。前列右の花束を持っている人物が、内藤に似ているのだが、特定できなかった。

ほかに外国に在住していた選手もいる。たとえば、岡崎勝男はこのとき英国大使館勤務の駆け出し外交官で、任地から陸上競技に参加した。岡崎はのちに終戦連絡事務局長官を経て外務大臣など歴任する。

無事に大役を果たした安堵の笑顔が見える船上のオリンピック選手団。今年のリオに派遣された日本選手三百三十八人と、比べようもないささやかな規模を伝える一枚だ。
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