ガレノス 書評|スーザン・P・マターン(白水社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年3月3日 / 新聞掲載日:2018年3月2日(第3229号)

医と身体の歴史 
稀有かつ有益な評伝

ガレノス
著 者:スーザン・P・マターン
出版社:白水社
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西洋世界の医と身体の歴史を語るとき、ガレノスは必ず言及される人物のひとりである。ガレノスたち西洋古代の医師たちがつくりあげた医学と医療実践、すなわち体液説、瀉血、ヒポクラテスの誓い、養生、あるいは全身主義(ホーリズム)的な医と身体の理解は、西洋世界では近代の終わりごろまで信奉されつづけた。その影響力の大きさゆえか、ガレノスの医学は、医と身体の歴史を語るとき克服されるべき過去としてたびたび言及されてきた。たとえば、ルネサンス期イタリアにおける解剖学の発展、ウィリアム・ハーヴィの血液循環論の発見、革命期フランスにおける病理解剖学と身体検査技法の発展が語られるとき、ガレノスは過去の偉人として進歩の語りの一部となる。そのような進歩の語りは現代でも顕在である。大学の学部生向けの講義で古代医学について話すとき、一定数の学生はきまって「昔はそんなことをしていたんですね」「現代に生まれてよかった」「医学が発展してよかった」という反応を示す。こちらとしては、近代医学が古代医学に対して勝利したことをただ褒め称えるのではなく、時代や地域に応じた文化によって実に多様で豊かな医と身体の歴史が存在したことを感得してほしいと思っているのだが、それはなかなか難しい。

本書は、ガレノスをめぐる医と身体の歴史には、進歩の語りでは包摂しきれない、多様かつ豊かな様相がみられることを教えてくれる。著者のマターンは、ガレノスの医学文書の緻密な解析という古代医学研究の成果を受け継ぎ網羅的に紹介しつつも、ローマの政治・経済・社会との関係においてガレノスとその医の歴史を描きだす。たとえば、ローマの公衆衛生や疫学的な状況、あるいは考古学的な知見に基づく化学的物質への暴露に関する記述は、そこで生きるすべての人々の生を語ることにも等しい。また、ガレノスの処方した薬についての記述も、ローマ時代に動植物が医のためのモノとして流通し、加工され、人々の口に入り、あるいは皮膚に塗られたことを明らかにする、一種の経済史ないし消費の文化史のようでもある。こうした入念な叙述は、本書を単なる評伝にとどまらないものとしている。

一方で、医学史にかかわる評伝としても、本書は極めて興味深い。特に印象的なのは、ガレノスの徹底した経験主義の姿勢である。「第3章 剣闘士」で描かれる、剣闘士に施したワインに浸した麻布を傷に充てるという治療法は、マターンに依れば、「ワインの中のアルコール分と酸が微生物を殺した」可能性があるという。経験でたどりつける極致とも言える治療がそこにみてとれる。「第4章 ローマ」と「第5章 解剖とボエトゥス」では、首都ローマに赴いたガレノスが同業者との熾烈な競争を迫られ、経験的な知識を用いた予後の診断を披露することで自らの地位を築いたことが述べられる。その成果は、同業の医師たちに占い師に喩えられるほどであったという。この経験主義的な医のあり方は、ガレノスの臨床重視の姿勢と深く関係がある。「第2章 医学の習得」と「第7章 ガレノスと患者たち」では、彼が、様々な医学理論を折衷的に吸収する一方で、教条主義的な医学理論には抗い、脈拍などの身体からの情報を通じて患者を徹底的に観察し、そこから独自の診断と治療法を導いたことが論じられている。彼の臨床重視の姿勢は非常に粘り強く、かつ執拗であり、魔術的・迷信的とは容易には評しがたい。

このように本書は、古代ローマ世界の医と身体の歴史、そこにいた人々の生と死のあり方を描き出し、さらにはガレノスとその医学の力強さの根源を、徹底した経験主義に裏打ちされた臨床へのこだわりとして提示する。狭義の古代医学理論の歴史ではなく、偉大な医師の年代記でもない、稀有かつ有益な評伝である。(澤井直訳)
この記事の中でご紹介した本
ガレノス/白水社
ガレノス
著 者:スーザン・P・マターン
出版社:白水社
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