バテレンの世紀 書評|渡辺 京二(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年3月3日

歴史の中の生と死の人間模様 
無名者に視線を向ける歴史の父

バテレンの世紀
著 者:渡辺 京二
出版社:新潮社
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バテレンの世紀(渡辺 京二)新潮社
バテレンの世紀
渡辺 京二
新潮社
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昨2017年は、1月にキリシタン迫害を描いた遠藤周作『沈黙』を映画化したスコセッシ監督『沈黙 サイレンス』が公開され、2月に教皇フランシスコが福者と認定したキリシタン大名高山右近の列福式が大阪城ホールで行われ、そして7月に石牟礼道子『完本 春の城』(藤原書店)が、11月に『バテレンの世紀』が刊行された(この二著は二人の相聞歌の趣がある)。キリシタン史に対して持続的な関心が寄せられている。

その『バテレンの世紀』は著者の一連の著作、『逝きし世の面影』(葦書房、1998年。後、平凡社ライブラリー)、『日本近世の起源――戦国乱世から徳川の平和へ』(弓立社、2004年。後、洋泉社)、『黒船前夜――ロシア・アイヌ・日本の三国志』(洋泉社、2010年)に連なるものである。特に、室町戦国から徳川初期までを扱った『日本近世の起源』に接続する。そこでもフロイス、ヴァリニャーノをはじめとする「バテレン」の日本観察記を史料として多用していた。本書は、これと重なりつつ「キリシタン史」を、つまり1543年ポルトガル人の種子島漂着から1639年のいわゆる鎖国令に至る「キリシタンの世紀」を描いたものである。キリシタン史について研究者による厚い蓄積に基づく書物があるなかで、なぜ本書を書いたのか。

「私はただキリシタンの事跡にひかれて、それを詳しく物語りたかったのである。……一般の読書人にとって、欲しいのは詳しい通史である。なぜなら、歴史叙述は詳しいほど面白いからである。それは例えばギリシア史についての教科書と、ヘロドトス、トゥキュディデスを読み較べればわかる。私は、そんな通史を、15、6世紀の最初の日欧遭遇について書いてみたかったのである。」いわゆる「歴史の父」まで引き合いに出しているのには畏れ入るが、『なぜいま人類史か』(葦書房、1986年)の著者がこの二大史家を意識しながら本書を著したことは注目に値する。

本書は、キリシタンの世紀における西洋との第一の遭遇と、幕末以降における西洋との第二の遭遇との違いについて書いている。

この第一の遭遇の背景としての大航海時代はどのようなものであったかの叙述から本書が始まる。ヨーロッパ本土でのハプスブルク帝国樹立の企図と、それを挫折させようとする英蘭との対立があり、カトリシズム海外宣教は世界のヨーロッパ化の旗印であり戦略であった。そして、ポルトガルがアフリカを廻ってアジアへやってきて、日本を「発見」する。ポルトガル海上帝国と結んだイエズス会の強力な宣教が第一の遭遇の背景である。そして「この最初の出遭いはともに対等の立場から相互を発見し、ひとつの世界史を形成するいとなみという、うららかな表象を帯びている。」と著者は言う。文明的対等者どうしの出遭いであった第一の遭遇と異なり、幕末の第二の遭遇では、ヨーロッパは文明的優越者として日本の前に立ち現れた。

そして「キリシタンの世紀」の終焉を告げるいわゆる「鎖国」。それは、西洋が主導する普遍的な世界史形成に日本が参加する機会を失ったものではなく、むしろ、流動化する世界を再び秩序立てるための全世界的な課題への対応として、「鎖国」は普遍的世界史のひとこまだったのであり、(1614年の徳川家康の全国禁教令の理由を「レザン・デ・エスタード」の発動と解するイエズス会士の見方を紹介しつつ)それは「国家理性」の発動であると著者は見る。本書は「世界史の形成に参与する能動者としての日本の位相を見極める」ために書かれたのである。

本文は全27章で構成されているが、「島原・天草一揆」に三章が当てられていて圧巻である。著者は天草四郎を「日本史上最大の謎の人物のひとり」と呼び、霊感に憑かれた人物、預言者として見ている。そして一揆を「神の国=農民共和国という、まさに革命的な性質」に高揚した千年王国運動の類いのものとする。

ここで描かれる「天使」天草四郎とその家族のエピソードに心打たれる。一揆の最中、天草の大庄屋で四郎の縁戚の渡辺小左衛門が逮捕され、そして四郎の母、姉、妹、甥が生け捕りにされた。討伐上使の松平信綱は四郎の甥(7歳)に小左衛門の書状を持たせて原城に遣わした。強制的にキリシタンにされた者らを城外に出すならば、代わりに四郎の母らを城中に送るという趣旨の書状である。それは奏功しなかったが、城内からは四郎の甥に「柿、みかん、さとう、久年母、まんじゅう、いも」の類を入れた袋を土産に持たせたという。「哀れ」と著者は言う。信綱はさらに、甥に四郎の妹(7歳)をつけて送り、これも不首尾だったが、城中から帰った妹は「掌に指輪ひとつとムクロジふたつを握りしめていた」。兄四郎がくれたものだろうと言う。籠城した者のみならず四郎の家族親族もことごとく殺された。

この原城包囲戦では、双方の矢文による通信合戦もあり、残された史料によれば、一揆勢の主張は、今生(現世)ならば王命に従うが、後生(来世)に生きようとする我らは天使たる天草四郎に従うというものであった。この二元論は日本における抵抗の論理として稀少なものであるとする。

また攻城に加わった幕府方の砲術家鈴木重成は、一揆鎮圧後、天草の代官となる。鈴木は、仮名草子作者として名高い兄の正三を招いてともに人心の安定に努め、年貢半減を何度も上申したが聞き届けられることはなく、身に替えて宿願を遂げるべく江戸の自邸で自刃した。年貢半減が実現したのは、天草の代官を継いだ鈴木の養子重辰(正三の息子)の代である。

原城への第一次総攻撃の際の天草四郎方の様子を、この鈴木重成は「女どもまでも襷をかけ、クルスを額に当て、鉢巻をいたし、石飛礫を雨の降るほどに打ち申し候について、寄せ衆しらみ〔攻撃側がひるみ〕、引き申し候」と記していた。著者は「重成の報告には百姓どもへの侮蔑や憎悪はない。むしろ、けなげな者どもよという感嘆の口調さえうかがえる。この先、天草の百姓のために腹を切る素地はすでに出来ていたのだ。」と評する。

この一揆の際に、幕府の要請によりオランダ平戸商館長は大砲と火薬を提供しただけでなく、原城沖にオランダ船を送り、原城砲撃を指導した。一揆勢は、異国勢まで加勢させて恥と思わぬかと攻撃側を非難した。そのオランダはキリスト教徒迫害に加担したという非難をヨーロッパ中から受けることになるが、商館長はこれは宗教戦争ではなく領主の苛政に反抗する農民反乱であるとくどいほど強調した。

以上のほか、本書の視野は、当時の東北地方や蝦夷まで届いていることも注目される。英雄譚としてではない支倉常長の遣欧使節団、奥州水沢の領主後藤寿庵によるイエズス会士の保護、津軽家のキリシタンに対する好意的な態度、また「天下がパードレを日本から追放したが、松前は日本ではない」とする蝦夷の松前家による保護など、九州とは別の位相でキリシタンに接した各地域の様相も浮き彫りにされ、当時の多元的な日本の可能性を感じさせる。

一方、来日キリスト教諸教派の争いも詳しく描かれている。これは、対日宣教は、単なる布教活動だけでなく、それぞれの布教団体の背後にある国家の対外政策と密接に絡んでいたからである。当時、強力な軍事国家であった日本に対するヨーロッパ勢力は、その進出にあたり、布教と貿易を手掛かりにしようとした。その貿易が例えばイエズス会の必須な財務基盤でもあったために、各国勢力の利害は各布教団体の利害に直結し、対立は輻輳を極めた。1614年、家康が全国禁教令を発布し、宣教師と高山右近らがマニラに追放された年、第3代日本司教セルケイラが死に、日本司教代理の選出をめぐって「教会分裂(シスマ)」まで引き起こすに至り、その後イエズス会とスペイン系修道会とは勢力争いに血道をあげることになった。

結句、著者が描きたかったのは、普遍的世界史という歴史の大きな流れと、そのもとで喜怒哀楽の生と死を営む人間ではなかったか。様々な事実だけでなく、そのような歴史の中の生と死の人間模様に接することもできるのが、本書の醍醐味である。歴史に消えていった名もなき小さな人にも目を向けようとする著者の姿勢は、初期評論集『小さきものの死』(葦書房、1975年) 以来、一貫している。「無名者に視線を向ける歴史の父」と言えようか。
この記事の中でご紹介した本
バテレンの世紀/新潮社
バテレンの世紀
著 者:渡辺 京二
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年3月2日 新聞掲載(第3229号)
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