百年泥 書評|石井 遊佳(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年3月3日 / 新聞掲載日:2018年3月2日(第3229号)

言語を超えた世界への志向が根底に抜きがたく脈打つ

百年泥
著 者:石井 遊佳
出版社:新潮社
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百年泥(石井 遊佳)新潮社
百年泥
石井 遊佳
新潮社
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アジアの東の端の海に浮かぶいくつかの島に住む、世界人口の2%ほどの人々が話す少数言語。それが日本語だが、小さな言語である割には、世界中で日本語を学ぶ人は決して少なくない。例えば南インドのチェンナイにも日本語を学ぶ若者たちがいる。

『百年泥』の主人公「私」はチェンナイのIT企業の新入社員たちに日本語を教える教師だ。インドは目覚ましい経済成長で日本との行き来も多くなっている。最近ではIT技術先進国のイメージもある。そんなインドと日本語の出会いがまずは読みどころと言える。生徒たちが口にする珍妙な日本語や騒がしい教室の風景に、読者は独自のゆったりしたペースで世界に広がる我らが母国語の冒険を見て、大いに楽しむことだろう。

その一方で、生徒たちを通じて「私」が出会うのは、恋愛結婚はいまだ少なく、大学でも男女の交際は厳しくとがめられ、女児は歓迎されず生まれるや殺されてしまうことも珍しくなく、警官は人々に平気で暴力をふるう、そんなインドだ。以前から変わらない部分と世界の先端を行く新しさが混じり合って生み出される混沌を、作者は百年に一度の洪水で積みあがった泥の塊や、無数の人々の群れといったリアルなイメージと、川の上を飛び交う飛翔通勤者という想像上のイメージを交えて描き出している。

小説は百年に一度の洪水が引いた後に会社に行こうとする「私」が、交通違反の罰として路上で泥掃除をしている生徒デーヴァラージに会うという現時点・現在地を軸にしながら、「私」やデーヴァラージの過去や家族の物語までを自由自在に行きつ戻りつする。注意して読まないと継ぎ目が分からなくなるほどの場面転換の滑らかさ、常に一定のトーンを保つ安定した語り口は新人離れした「うまさ」を感じさせる。それがデビュー作で芥川賞受賞という評価にも結び付いているのではないか。

自由自在に展開する語りは、しかし単に技術的なものではなく、全ての人の思考や人生が根本においては通じ合い、結びついているという世界観の表明ともなっている。百年ぶりの洪水が残した「百年泥」の中からは人々のかつての恋人や友人、思い出の品の数々が次々と姿を現す。だが姿を現した人は誰かにとっては恋人であり、他の誰かにとっては親友であり、また他の誰かにとっては兄である。同一人物というわけでもなく、しかし結局は同一人物なのかもしれないのだ。

そうした思考や人生の絡み合いは、言語を超えた集団的な無意識の世界ともつながっているようだ。日本語という言語が重要なモチーフの一つとなっている小説であるにもかかわらず、いや、それだからこそ、根底には言語を超えた世界への志向が抜きがたく脈打っている。融通無碍で混沌とした泥のイメージは、その象徴でもある。

「私」の思い出に登場する両親や小学校の友人はほとんど言葉を口にしない人々である。特に重要な存在である母親は、脚を得た代償に言葉を失ったアンデルセンの人魚に擬せられ、全く何もしゃべらず、表情も乏しい。だが母親と「私」は言葉や表情よりもはるかに豊かな沈黙の時を共にしていた。

飛翔通勤者のイメージがやや浮いて感じられるなど、一見して完璧からは遠い小説だが、日本語のこれからを考える上で、石井遊佳の登場の意味はきっと大きい。これまでに蓄えたものは多そうで、二作目以降にも期待したい。
この記事の中でご紹介した本
百年泥/新潮社
百年泥
著 者:石井 遊佳
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
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