出鱈目さを隠そうとしないかけがえなさ ジャウマ・コレット=セラ「トレイン・ミッション」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年3月13日 / 新聞掲載日:2018年3月9日(第3230号)

出鱈目さを隠そうとしないかけがえなさ ジャウマ・コレット=セラ「トレイン・ミッション」

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マイケルはその日職場で解雇を言い渡されるとは、朝に家を出る時、夢にも思っていなかった。職を失って落ち込んだ時も、帰りにとんでもない事件に巻き込まれるとは予想のしようもなかった。マイケルが帰りの列車に乗ると、女が向かいに座ってきて、盗品を鞄に入れた乗客を車内から探し出すという任務を彼に巧みに押しつける。だが、これはほんの出だしにすぎない。ジャウマ・コレット=セラの『トレイン・ミッション』が語る物語は、ここから思いもよらぬ方向へ進んで行く。

映画を観終わって事件の全容を知った観客は、こんなことはありえないと呆気にとられるだろう。もっと簡単な方法がいくらでもあるのに、首謀者はわざわざ一番複雑で失敗する確率の高いものを選んでいるかのようだ。だが、それを理由にこの作品を否定するとしたら、不幸なことでしかない。映画の物語は虚構だ。マルチバースにおいてそれぞれの宇宙が異なる物理法則に支配されるように、虚構の物語世界の論理は現実世界の論理とは異なる。出鱈目さという差異こそが物語世界の根本であり、リアリズムという類似によって物語世界を捉えるのは貧しい行為でしかない。

ところで、乗り物のなかで主人公が脅迫され次々と死者が出るというのは、コレット=セラの『フライト・ゲーム』と同じだ。つまり新作では舞台が飛行機から列車に移ったのである。こうして作品間に同一性や類似を見出して作家的統一性を確保するのは映画批評の常套手段だが、これでは差異は同一性と類似に従属することになる。さらに、列車が舞台であれば当然、『バルカン超特急』や『第十七番』といったヒッチコックの映画も引合いに出される。ズームと移動を組み合わせたショットや組立て式の列車のセットで自在に窓をすり抜けるカメラも、ヒッチコックとの結びつきを強める。だが、作品は間テクスト性から逃れられないとはいえ、こうした比較によっては差異を差異として肯定できない。

『トレイン・ミッション』は通勤列車を舞台とするが、通勤列車は日々繰り返される単調な移動のための手段だ。映画の冒頭で、毎朝の出勤の反復が風変りな編集で示される。だが、こうした表象の反復にとらわれていては、映画が語る特別な一日も、表象の反復が示す同一性に従属する差異としてしか捉えられない。表象の反復は見かけであり、永遠回帰における反復とは全く異なるものである。

けれども、そもそも映画という表象文化において、差異は同一性と類似に従属するしかない。画面上に人間や動物の似姿を見て人間や動物と認識することにより、映画の物語は初めて成立する。映画という類似を前提とするメディアでは、差異も差異に基づく多様性も相対的なものでしかありえない。

とはいえ、差異をもっと輝かせることはできないのか。冒頭の通勤風景で、日常の反復をこえて差異が豊かに戯れていること。陰謀に満ちた帰りの列車内で、右手か左手か、いつ誰が盗み見をするかといった些細だが重要な細部が連続し、マイケルの表情も刻々と変わっていくこと。そして何より、複雑な物語の展開が出鱈目さをまるで隠そうとしないこと。これらは『トレイン・ミッション』のかけがえのない魅力だ。どうしたら私たちはこうした差異を受け止められるのだろうか。

今月は他に、『15時17分、パリ行き』『マンハント』『霊的ボリシェヴィキ』などが面白かった。また未公開だが、ジャン=ポール・シヴェラックの『黒衣の少女たち』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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