昭和後期の科学思想史 書評|金森 修(勁草書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年9月23日 / 新聞掲載日:2016年9月23日(第3157号)

十三の丹精された「果実」 この国の「科学の来歴と肖像」 を描き出し、熟慮へと誘う

昭和後期の科学思想史
出版社:勁草書房
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なぜ科学思想史なのか。「科学とは何か」を知り、「科学とどう向き合うべきなのか」を考えるためである。だがそれだけではない。現代に生きる私たちがなお「人間」であり続けるためでもある――本書を読み終え、そのような想いを深くしている。

確かに大部の書ではある。前編『昭和前期の科学思想史』(勁草書房、二〇一一年、以下『昭和前期』)と合わせるなら一千頁に届く。想像の中でさえ重々しいが、むしろここではそれを、編著者・金森修の手になる一つの「器」に(彼自身のも含め)十三の丹精された「果実」が盛られた姿に見立てたい。その「器」の佇まいは、本書もそこに始まる『昭和前期』序章「〈科学思想史〉の来歴と肖像」に、また本書第七章「核文明と文学」に映し出されている。

序章は「文献表にあげたものも入れれば優に六五〇冊は超える〔昭和以降の〕文献群」の引用から成り立つ。もちろん単なる枚挙ではない。「私は彼らに創ってもらったのである」と語る金森は、叙景によって天地を言祝いだ古代の歌人さながらに、科学をめぐる思考の「宝蔵体」のありかと、それを生み出してきた「魂」のありようとを綴ってゆく。その筆致は温かく、批判さえも敬意に満ちている。歴史を書くことがある意味、「死者との対話」でもあるなら、ここで金森は「死者たち」に礼を尽くし、そうして彼らの「語り部」たろうとしているように見える。他方でそこからは、金森が歴史を知ることに、「いま・ここにいる」だけでなく「かつて・そこにいた」人びととも共に思考することに、どれほどの愉悦を感じていたのかもひしひしと伝わってくる。そしてそのことは、科学思想史に馴染みのない読者に向けて「私が行いうる精一杯の〈学問的誘惑〉」が、奏効していることの証でもあるだろう。

しかし同時に、金森の筆致には哀しみと憤りの色も濃い。彼は再三、「科学もまた一つの文化であり、一つの思想だという事実」を、そして「科学という学問が与えられたとき、それについて何をどのように考えるのかということ自体も、一つの文化であり、一つの思想になる」ことを指摘する。それは科学思想史の意義と使命の開示でもある。科学思想史は、科学をしておのれの何たるかを知らしめ、人びとをして科学の意味と未来の熟慮へと誘うのであり、またそうするのでなければならない。なぜなら「自分の来歴を知らない知識、知ろうとしない知識は、同時代の社会状況や政治的介入に振り回され、その場その場でただ狂奔しているだけのものに成り下がる」(『科学思想史の哲学』岩波書店、二〇一五年)からである。だがまさにそれこそは、三・一一後にあらわになったこの国と科学のありようそのものではないのか。

それゆえ本書第七章(全体の最終章でもある)が、原爆文学・原発文学を主題としたのは必然であったとも言えよう。「われわれは歴史から学んでいない。本当に懲りていない」。だからこの国には、われわれ日本人には、原爆という未曾有の経験をしていながら原発を作り続けるなどということが可能だったのだ。二〇〇冊余りの文献群に向き合うその姿は序章と変わらない。金森はそれらを、「核文明の理不尽さを当然の既定条件とはしないという意志」「たとえ風前の灯火のようなものであったとしても、〈人間の人間性〉を刻む表現行為を続けようという意志」を支え、豊かにもしてくれる、やはりある種の「宝蔵体」として描き出す。それはまた、「この異常な時代を生きるわれわれが生き続ける際に、寄り添うべき一つの〈聴聞〉の可能性」に賭ける金森が、みずから示した一つの実践の形でもあるだろう。石牟礼道子がそうであったように、「既に死んだ者、死にゆく者の哀しみを伝えるべくこの世に現れた〈死者の語り部〉」たろうとした多くの原爆作家たちがいた。「それら語り部たちのかすかな声に耳を澄まし、そこから生命の源泉に連なる響きを聞き取ろうとすること。この汚辱に満ちた世界の中から清冽な倍音を少しでも聞き取ろうとすること」――少なくとも三・一一後の金森にとって、科学思想史(家)が「魂」を宿すとはそういうことであった。そのように思われてならない。

したがってまた、金森が科学思想史という「マイナーな学問領域」「鵺的な学問」の「衰退」を憂い、なおもその未来にささやかな希望を託すとき、それを学者によくある繰り言などと見てはならない。科学技術の急速な発展は、歴史的分析よりも同時代的対応を迫り、利害や価値判断を異にする多様なセクター間の政治的・技術的な調整をこそ「問題」とさせるようになった。金森はそうした知的布置の変動を「科学思想史から科学政治学へ」と定式化し、そこにある種の必然性と意義さえも認める。だがそうであるからこそ、現代においては「科学の来歴と肖像」を語る思想史が、これまで以上になくてはならないものにもなる。政治的・技術的な調整は必要だが、それだけでは、科学技術が「その場その場でただ狂奔しているだけのもの」であり続けるのを止めることはできない。そうなれば科学技術は「人間の人間性」をさらに毀損し、ついには科学それ自体を破壊するに至るだろう。そのように語る金森が最後まで憂い、そして希望を捨てなかったのは、彼がこよなく愛した「人間」と「科学」のゆくえだったに違いない。

このような「器」に、形も色もとりどりの「果実」が盛られている。それぞれの味わいに関しては「あとがき」に金森の的確な評言(彼自身のを除く)があるので、屋上屋を架すことは慎みたい。ただ付言するなら、金森の「器」がそうであるように、どの「果実」にも独自の「魂」が宿っている。それらは時に寄り添い、時に離れ、時に対峙さえしながら、この国の「科学の来歴と肖像」をまた新たな仕方で描き出している。調和や統一という表現は似つかわしくないが、そのことは瑕瑾であるよりも、「(科学)思想―史」の多彩なありようを、その未来の豊かさを予示するものであり、おそらくは金森の望むところでもあっただろう。

最後に、本書には「この人」「あの主題」が欠けていると難ずる向きもあるかもしれない。だが思想史が終わらざるものであるなら、そしてその限りで「宝蔵体」がそれとして現れうるなら、そもそも「決定版」などありえないし、あってもならないだろう。むしろなされるべきは、一人の科学哲学者・科学思想史家が彼自身、思想史の対象へとなりゆく間際に私たちに手渡したその「器」に、この後も盛られるにふさわしい「果実」を探究することではないだろうか。あるいはそこに込められた「魂」に促されて、私たちの間でだけでなく、「死者たち」とも共に、「科学とは何か」「科学とどう向き合うべきなのか」を問うことではないだろうか。そうであるとするなら、本書はただ読まれることをではなく、一つの始まりとなることをこそ願っているのである。
この記事の中でご紹介した本
昭和後期の科学思想史/勁草書房
昭和後期の科学思想史
著 者:金森 修
出版社:勁草書房
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