対談=横尾忠則×平野啓一郎 寒山拾得のように デ・キリコのように 『創造&老年』(SBクリエイティブ)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年3月16日 / 新聞掲載日:2018年3月16日(第3231号)

対談=横尾忠則×平野啓一郎
寒山拾得のように デ・キリコのように
『創造&老年』(SBクリエイティブ)刊行を機に

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第4回
§文学と美術―絵画の物質性とエロス§

SENECA 2018年/キャンバスに油彩/1167×909mm
平野 
 『創造&老年』を読んで、あるいは普段話していて思うのは、横尾さんがかなり文学を気にかけていて、文学との違いを通じて、美術に対するご自分の考えを整理されているということです。
横尾 
 文学者は一字一句、頭を空っぽにしていられない職業ですよね。
平野 
 できないです。
横尾 
 画家は逆に、「無」の力を借りないと、手が動かない。概念芸術は、文学に近いかもしれないけれどね。そこは文学と美術の根本的な違いだと思う。

小学生の頃、宮本武蔵や、岩見重太郎、新田義貞、木村重成などの歴史的な物語が好きで、絵本の伝記を読んでいたのね。だから、ぼくにとっては文学=物語ですが、気をつけなければいけないのは、絵画が物語的になってしまうこと。近づきすぎて一線を越えてしまったら、ぼくの美術の世界は、破壊されてしまう。だからどこまで文学に興味を持つか、いつも意識していて、文学のことは遠くから眺めるようにしています。
平野 
 文学は時間芸術ですからね。作品内に数時間、数日間、数年間などの時間が流れていて、時に過去に戻ったりもしますが、基本的には過去から未来へ、ページを辿っていく。横尾さんの作品には時間性があるし、物語が広がっていくような魅力もあります。でもおっしゃるように、一線を越えて物語性が強くなりすぎたら、絵画の存在そのものよりも、ストーリーが重要になって、本来の美術とは違ってしまう。
横尾 
 通俗になってしまうよね。文学が通俗という意味じゃないよ。物語を描いた美術は通俗です。ぼくの時間は、古代の時間みたいに横に流れていないのだと思う。昨日と、今日と、明日が一連なりに流れるのではなく、反復しているんですよ。今日は昨日の反復、明日は今日の反復。ぼくの作品は反復することによって、時間の流れを自ら阻止している。時間の流れにぼくが没入してしまうと、文学的時間に囚われた、物語的なつまらない絵になってしまうわけよね。
平野 
 今の話に関連すると思うのですが、李禹煥さんとしていた、レンブラントとゴッホの自画像の話が、面白かったんです。レンブラントは自画像を描いているけれど、自分の顔を借りながらそこに違う存在、人間の超越的な何かが表われてくる。李さんは、一方でゴッホの自画像は、実存にこだわり過ぎ、精神病的な痛みを感じてしまうと。そして横尾さんは、ゴッホの絵には、物質としての絵の具を見てしまうと言っています。でも、美術では絵の具を見ることもやっぱりすごく大事でしょう?
横尾 
 絵の具とか、筆さばきね。
平野 
 マチエールはどうでもいい、ということになって、絵の奥の精神性みたいなものだけを重視してしまうと、やっぱり絵画鑑賞じゃないと思う。文学はどこまでいっても記号ばかりで、描かれる世界はイマジネーションしかないわけです。一方絵画は、物質として目の前にある。それが、単純だけど、美術と文学の根本的に違うところだと思うので。
横尾 
 作家の平野さんの口からそういう話を聞くのはとても貴重ですね。物質性は、文学の追求する世界ではないから。でも先日、磯﨑憲一郎さんと話していて、絵の具を塗り重ねるように、文章を書くことを意識していると言っていました。彼は、物質性ということに気づいている人じゃないかな。
平野 
 本を読まずに、わざわざ美術館に行って絵を観るのは、目の前に絵がある、ということが魅力的だからです。だから向き合って魂が打ち震えないような、解説を読んでやっと何のことかわかるような作品はダメだと思うんですよ。
横尾 
 昨日見た夢がとても不思議な夢でね。現代の画家たちは真のエロティシズムを知らない。その真のエロティシズムを、今から教授しましょう、と言って、マリリン・モンローが出てくるの。場所はディズニーランドみたいなところで、マリリン・モンローとベッドインする。全てエロスのために、仕立てられているわけね。マリリン・モンローはケラケラ笑ったり、「クスグッタイ」とか「下半身はダメよ」とか、いろいろ言うわけ。
平野 
 楽しそうな夢ですね(笑)。
横尾 
 そこでぼくが面白いと思ったのは、人間の五感が全て出てくること。夢の中でぼくは、モンローの唇を見ているのね、これ「視覚」でしょう。モンローの汗の匂いを嗅いでいて「嗅覚」でしょう。声を聴いているから「聴覚」があって、「クスグッタイ」というのは「触覚」。最後に成城学園前に焼肉を食べにいくんですよ、それが「味覚」。目が覚めてから、真のエロティシズムというのは、五感の表現なのではないかなと。性と死の合体がエロスという捉え方が定番になっているけれど、五感表現の合体こそエロスなのだ、と夢に教えられた気がするのね。ただセクシャルなモチーフや死を描くというだけではなくて。
平野 
 なるほど。一人の女の人との関係を想像すると、最初は電話とか聴覚だけで、会って視覚的情報が加わって、手をつないだりして触覚の情報が、キスして味覚や嗅覚が加わり、五感が揃ったとき、エロスも高まっている。逆に別れることになると、キスできなくなり、触れられなくなり、会えなくなって、声も聴けなくなる。
横尾 
 平野さんの表現は、やっぱり文学的。時間芸術的だね(笑)。
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この記事の中でご紹介した本
創造&老年/SBクリエイティブ
創造&老年
著 者:横尾 忠則
出版社:SBクリエイティブ
「創造&老年」は以下からご購入できます
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