官業労働者の失業防止大示威運動|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年3月20日 / 新聞掲載日:2018年3月16日(第3231号)

官業労働者の失業防止大示威運動

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官業労働者が都下に於ける最初の失業防止大示威運動は十一日午前から小石川音羽護国寺から王子飛鳥山の間で行われた。写真は護国寺にて。(『写真通信』大正十一年三月号)

国会では裁量労働制をめぐって、厚生労働省のデータ改ざんや過労死問題が注目されている。労働者が安心して働ける環境づくりこそ、政府が取り組む基本だと思うが、現実はあまりに隔たりがある。

この写真はいまから九六年前の、大正十一(一九二二)年二月十一日に、東京文京区の護国寺前で撮影されたもの。掲載した『写真通信』同年三月号によれば「官業労働者の失業防止大示威運動」とある。デモ隊は護国寺から王子飛鳥山まで歩いて、大会が開かれたという。いくつかの「官業労働者団体」が実行したものだった。

官業労働者とは、官営工場で働く人たちのことで、兵器を製造する「工廠」が中心のようだが、女性が多く働いていたのは東京市内に何か所かあった専売制の煙草工場。「十四の娘は煙草の工場、匂いはすれども刻みもすえず」と、明治に流行したサラリーマン哀歌の一節が思い浮かぶ。
「官業」といえば恵まれた待遇だと思いがちだが、その賃金は安いものだった。まして女性の賃金は低く、男女格差は大きい。

この年の日給データに「大工一円十五銭、女工二十銭」(『物価の世相100年』読売新聞社刊)とある。米一升(約一・五キロ)二十銭という物価統計と重ねてみても、現在とでは比較は難しいが暮らしは楽でないことが推察できる。だが、記事にある要求「失業者を救え」「生存権を与えよ」「二か年分の手当要求」は、賃上げより失業への不安が当面の問題だったことがうかがえる。

このころ、日本の労働運動は次第に大きな組織を形成する動きを見せて、この年に鈴木文治らが結成する「友愛会」は日本労働総同盟となるから、このデモもそうした流れの一環だろう。

写真をじっくり見渡すと、羽織や外套を着た男性がいる情景には緊迫感が伝わってこないが、男性たちの後ろに女性たちの姿が見える。子供をおぶっていたりするが、もっと目をこらすと男性のなかにも子を背負い、抱いている姿がある。子供たちもそここにいて、生活感が漂っているデモ隊である。
「保育園落ちた、日本死ね!」と訴えたブログから国会前に大勢の母親たちが集まったのは、つい二年前の平成二十八年だった。百年前の、このデモに参加した母親たちが叫びたかったのは、どんな言葉だったのだろうかと、この一枚から連想して見入ってしまった。

明治から大正に変わって、藩閥政治が終わり政党政治に移ろうかという「大正デモクラシー」の時代が始まるが、底辺を支える人々の暮らし向きはきびしいまま、まもなくヨーロッパに起きる第一次大戦の戦火で乱高下する日本の景気に翻弄された。

そして、写真の五年半後には、富山の「女一揆」を発端に米騒動が全国に広がるが、これは、生活苦に追い詰められた女性たちが胸にたまった要求を行動に移したのだ。

大正デモクラシーは女性解放運動が燃えあがった時期でもあった。平塚らいてうの「元始、女は太陽であった」という高らかな宣言に勇気づけられて、自らの意志を語ろうとした女性たちが現れるようになったのである。

しかし、その「女性パワー」は封じられ、まもなく到来する戦争の時代にのみ込まれ、本心を心の奥底にしまい込んで「軍国少女」「軍国の母」が造られていった歴史を忘れたくない。
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