飯田有子『林檎貫通式』(2005) にせものかもしれないわたし放尿はするどく長く陶器叩けり|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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現代短歌むしめがね
更新日:2018年3月20日 / 新聞掲載日:2018年3月16日(第3231号)

にせものかもしれないわたし放尿はするどく長く陶器叩けり
飯田有子『林檎貫通式』(2005)

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佐佐木幸綱によれば「食事する私」と「排泄する私」は、古典和歌には登場せず近代になって初めて短歌に詠まれるようになったテーマだそうだ。幸綱は金子兜太との対談の中でも、和歌では俗なことや汚いことは絶対にうたわない風潮があり、和歌へのカウンターカルチャーとして生まれた江戸の俳句にはそのために「おしっこ・うんこ」を積極的に詠もうとする傾向があったと語っている。松尾芭蕉にも「鶯の糞」を詠んだ句があるそうだ。

歌人・詩人の柳本々々はこの幸綱の指摘をふまえたうえで、ひとがいかなる状態であっても個室に入って孤独な状態になる排泄という行為が、現代短歌において重要な主題となりえていると指摘している。とても面白い発想だ。「おしっこ・うんこ」は、実は現代短歌のクリティカルそのものなのだ。それを考えると、飯田有子が詠んでいるこの「にせものかもしれないわたし」という感覚はとても興味深い。トイレという空間はたった一人になるからこそ、実存の不安がもっとも象徴的にあらわれるところなのだ。

便器のことを「陶器」と材質名で言い換えたり、この歌で描かれている放尿の情景は、冷たいといえるほどにクール。まるで外から見下ろしているかのような客観描写であり、どこか離人的感覚がある。排泄という行為のただ中にありながら、いや、ただ中であるからこそ、「この身体は本当の自分のものなのか」という疑念がわいてくる。きわめてモダンな歌なのである。
この記事の中でご紹介した本
林檎貫通式/コンテンツワークス
林檎貫通式
著 者:飯田 有子
出版社:コンテンツワークス
以下のオンライン書店でご購入できます
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