加藤尚武著作集 第1巻 ヘーゲル哲学のなりたち 書評|加藤 尚武(未来社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年3月17日 / 新聞掲載日:2018年3月16日(第3231号)

へーゲルを楽しむ 
体系を完成した哲学者でなく、体系の思想を確立した哲学者として

加藤尚武著作集 第1巻 ヘーゲル哲学のなりたち
著 者:加藤 尚武
出版社:未来社
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加藤尚武氏の著作集(全十五巻)の刊行が始まった。周知の通り、同氏はヘーゲル研究だけでなく、倫理学全般を長年にわたり牽引してきた。本書は第一回の配本分として、出世作『ヘーゲル哲学の形成と原理―理念的なものと経験的なものの交差』(一九八〇年)のほか、単行本に未収録の四論文を収める。「ヘーゲル思想の全体をおおまかにつかむ」のが目的だという。ヘーゲルは「乗り超えられることなしに、批判されてきた」し「さまざまな誤解を受けてきた」。ヘーゲルを乗り超えたとか、正しく理解したと思い込んでいる人に、ということは、ほぼすべての人に、本書は適している。遊び心に満ちた“尚武節”(と私は勝手に呼んでいる)も全編に散りばめられていて、「文章の難解さ」で知られるヘーゲルの思想を、読者は「楽しむ」ことができる。

誤解の典型例たる「体系」を見よう。「体系を完成した哲学者」というヘーゲル像は「今日でもほとんど通用している」が、「『体系』を語ること」は「今日、失敗したものとみなされている」ばかりか、「哲学者としての節度に欠けることとさえ思われている」。ヘーゲルは「カントの『物自体』とスピノザの『実体』とを対比」させ、「カントに対してはスピノザの側に立つ」ものの、「いかなる哲学の始元も、スピノザのように定義をもってする始元ほどに拙劣な様相を呈するものはない」と批判する。「このスピノザ批判に関するかぎり」、ヘーゲルは「ヤコービとほぼ同じ観点に立っている」が、「体系は組織された非知である」と説くヤコービに対しては、「非知――個別的なものの知識――」は「組織(有機化)されることによって知となる」と切り返す。「個別知」を「有機化し、体系化すること」を「失敗」と思い込んでいる人は、ヤコービの直接知への信仰に陥る。無自覚的なヤコービ教徒も多い。ヘーゲルは哲学史講義で、ヤコービの直接知をデカルト的コギトへの逆戻りと批判する。

個別知を有機化することは「媒介」を語ることである。それは「経験の結果を、純粋な概念の世界に送り込んでいくことであり、また概念世界がすでにでき上がっているとするならば、概念が、経験世界に実現し、経験によって吟味され、認証されるプロセスでもある」。ここでは「客観的存在と主観としての意識が、概念において統一されている」。「主観客観の統一」だから、ヤコービらの「認識論上の主観主義におちいることがない」ばかりか、「存在、概念、意識は、それらをおのおの独自の世界と捉えるとき、自然、論理、精神からなるひとつの体系を形成する」。ヘーゲルの体系たる『エンツュクロペディー』が、この三部から構成される所以である。加藤氏の説明はクリアだ。

「プロセス」と言われる通り、体系的に提示される上記の統一は「媒介を内にはらんだ生動的な統一」である。一方で経験が概念に媒介されることで、「新たな経験の配置がつくり出され」るとともに、他方で概念が経験に吟味されることで、「対立項」を「モメントとして自己の内に含むふたたび新たな概念が形成され」て、「ふたたび新たな関係の配置が生まれる」。生動的だから、死んで動かぬものではない。よって、コジェーヴが言うような“歴史の終わり”などありえない。「ヘーゲルが体系を完成したというのは、嘘だ。また当人も完成したつもりではなかった。ヘーゲルは体系の思想を確立したのだ」。「体系の思想」を打ち出した事情は上記の通りで、さもなくばデカルト的コギトに逆戻りになる。しかし打ち出された体系は生動的で、更新されていく。

加藤氏によると「ヘーゲル哲学は、生命と同じ構造を全存在に適用したものである」。「生命のモデル」は、若きヘーゲルがすでに獲得していた視点である。「生きているものは、新陳代謝を通じて自己同一を維持する」。個体の新陳代謝には、周囲からの栄養摂取等が必要だ。加藤氏は「諸個体と自然との関係」を、より一般化すれば個と普遍との関係を「牛と牧場のごときもの」になぞらえる。「真に自立的なもの」は「実体的生命のみ」(牧場)であるとしても、「実体は個体〔牛〕によって食いものにされる非自立的存在」でもある。他方で同様に、個体は「実体によって養われる非自立的存在」であるかぎりで、「実体に吸収され」て「個体としての存立を廃棄している」としても、「この存立の廃棄が存立を生み出す」。ともに自立的であるとともに非自立的であり、「普遍的実体と個とは否定的に媒介された統一をなしている」。生動的な統一は「普遍と個の統一としての『具体的普遍』であ」り、「普遍と個という対立の一方である〔抽象的〕普遍ではない」。

「部分としての個体が、有機的な生という全体において、はじめて、一個の生として存立可能になる」。よって「いわゆるヘーゲルの『全体主義』が、じつに概念の抽象的普遍性から、個体性を守るべく考え出された発想であること」は「明らか」だ。「個体主義と全体主義」が、具体的普遍として生動的に「統一されるところに、ヘーゲル弁証法は成立」する。ここから生動的な統一が、「主観主義におちいる」近代哲学の克服という意味をもつだけでないことも、明らかになる。いわばヘーゲルは「イデア的なもの、ロゴス的なものに『生成』を与えた」のだ。自立的であるとともに非自立的であるから、生動的な統一は「否定性」の契機をもつ「同一性と非同一性との同一性」であり、「生命的、時間的、否定的同一性」である。イデアの永遠に動かぬ同一性との違いは「決定的」で、「きわめて重要」である。「実体の動性化、すなわち、主体化」によって、「第三の人」(アリストテレスのプラトン批判)のような「イデア論に固有のアポリアを克服」するという意味で、ヘーゲルの「弁証法は西欧の形而上学の伝統が生んだ正嫡の子である」。もちろん、伝統の継承者としての嫡子ではない。伝統が抱える問題に向き合った、論点の継承者としてのそれである。「プラトンからカントにいたるまでのあらゆるイデア主義とヘーゲルのそれとの重大な相違を見おとすべきではない」と語る加藤氏なら、“プラトンからヘーゲルにいたる西欧形而上学”といった定型句を、「誤解」と笑い飛ばすのではないか。

加藤氏いわく「固定した枠組みを壊して、根源的な流動に立ち返ろうという若きヘーゲルの哲学は、今日、われわれがヘーゲル哲学を研究するときにも指標となるように思われる」。根源的な流動は、体系期のヘーゲルのうちに、生動的な統一として生きている。だが、誤解は今も解けぬままだ。「社交好きでブラック・ユーモアの名手、オペレッタやワインが大好きで、そのくせ文章はいつも殴り書きというヘーゲルの実像」が、「精密で巨大な著作群を営々と築き上げた哲学の巨人というイメージにすり替えられてしまった」。つまり「体系を完成した哲学者」というイメージに。ヘーゲルは「非常に寡作」だが、『精神現象学』は「ひどい殴り書き」、『大論理学』は原稿料目当ての「無理な増量」、「講義要綱」として書かれた『法の哲学』と『エンツュクロペディー』は「口頭で説明を補足するというふれこみで書いている」ため、「そのままでは論述がつながらない」。イメージは虚像だ。

若きヘーゲルは根源的な流動を、「生物が互いに依存しあって生き、あらゆるものが生き、あらゆるものが享受している」と表現する。「享受する」と訳される“genießen”は「楽しむ」という意味で、「ヘーゲルの哲学のキーワードといってもいいくらい」だ。「真理はバッコス祭の乱痴気騒ぎである」(『精神現象学』)。生動的な「体系の思想」を確立した哲学者としてヘーゲルを読む楽しさを、本書は伝えてくれる。それは未完の体系の更新という祝祭に開かれている。
この記事の中でご紹介した本
加藤尚武著作集 第1巻 ヘーゲル哲学のなりたち/未来社
加藤尚武著作集 第1巻 ヘーゲル哲学のなりたち
著 者:加藤 尚武
出版社:未来社
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