あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学- 書評|小泉 義之(青土社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年3月17日 / 新聞掲載日:2018年3月16日(第3231号)

精神医療史の狂乱をたどりなおす道標として 
その時代の狂気の輪郭を素描する

あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学-
著 者:小泉 義之
出版社:青土社
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大学病院から診療科として精神科は廃止され、病棟にあふれた統合失調症患者はといえば、あれは医療の対象ではなかったのですよ、と笑い話にされる時代が来るのだろうか―その前、あの懐かしい狂気の形象が社会から退場した後の束の間に、「あたらしい狂気の歴史」が書かれるべきなのか?

この40年ほどの精神医療史の狂乱をたどりなおす道標として、本書はまず手に取られるべきだ。すべての医療改革運動が潰えた後の幻影―いかに進歩的であろうと、結局のところ精神医療は社会防衛的なものにならざるを得ず、それはおそらく狂気と近代的な言説空間が否定的に相互規定するという、私たちの思考可能性の基盤ゆえにそうなのだが、では実際狂気をめぐる「改革」の言説は、現実の国家・資本主義体制とどのような共犯関係を形成していたか―そうした問題をめぐって、著者の筆は、例えば筋金入りの改革派と目された小澤勲の錯乱性を浮き彫りにすることで、その時代の狂気の輪郭を素描する。

今日、精神病理学者こそが錯乱して見えるのは明白だ―かつて「分裂病」や自閉症が、人間学派の精神病理学者や進歩主義的な児童精神科医に対して現していたアウラは失われた。現象として、それは統合失調症への呼称変更や自閉スペクトラムの概念化という変化とパラレルであり、つまり喜ばしいことにそれらはありふれた障害のひとつになったのであり、しかしそれゆえ社会のよりソフトな管理からは逃れ難い―とすれば、それはいかなる革命により転覆されるべきか?

木村敏が「分裂病」概念の解体について語る時、それは彼の本質直感主義と不可分で、それゆえに彼は語りえない「こと」―「分裂病」という事象をめぐって患者の共犯者たりえたのだが、それは藤縄昭や松本雅彦が唱えた症状細分化による「分裂病」概念の解体という進歩主義的な耳あたりの良さとは区別されるべきだ。結果的には、症状記載の精緻化はよりソフトな管理に繋がったのだ。疎外された者aliénéは語るべき名を持たない、それは自閉症にも当てはまるだろう。〈両親は本児を一切の施設に入れることを拒否し〉との新聞報道に接した高木隆郎の慟哭の錯乱ぶりは、いまだ我々にとって教育的だ―いわゆる専門家は「自閉症児を自ら育てるこの親子」を、社会体制から守ることは決して出来ない。

問題はかくも政治的であると同時に認識論的なものである。実際、精神医学的診断概念の変遷については、当然ながら下部構造自体の変容が考慮に入れられねばならず、かつて巨大単科精神病院という収容装置があり、今日ではメンタルヘルスプロフェッションの増大という社会構造自体の変容が並置される。そうした視線が哲学的に意味を持ちえるのは、それが、精神の病が時代によって変化するのは、時代精神そのものの影響によるのか、あるいは下部構造の変化によるのかという問いを提起するからだ。

こうして本邦のいわゆる「現代ラカン派」の「発達障害論」の限界が見事に照射される。仮に社会構造の時代による変化により「普通精神病」なるものが増えたということが正しいとして、それと同時に「発達障害の時代」としての現代を批判するなどということは、ダブルスタンダードではないか。一方では時代精神の反映としての精神病の「軽症化」、他方では社会制度的な構造変容に伴う全ての人間の発達障害化?

あるいは木村の離人症症例の再考は、本書のクリティカルな思考が辿る最も険しい稜線を指し示している。そこで患者がどのように語り、木村がどのように聴き、著者がそれをさらにどのように聴きなおすか。明瞭なことは患者主体にとっての真理は患者の側にあるということであり、いかに医療者がボンクラであろうと、いやむしろかえって、その真理は損なわれようもない。

いくつかの首肯しがたい論点もある。今日のパーソナリティ障害概念のスペクトラム化というのは端的に言って誤解だろう。『心的因果性について』からの引用は、人は狂気になる自由があるという文脈で読むとラカンの論点を逆転させてしまう―「望んでも狂人になれない」。ことはフーコーの人間論的円環が現在終焉しつつあるのか、という問いに関わるゆえに重大である。狂気について狂気をして語らしめるという構造は今日も不変ではないか。18世紀発明された拘束衣が、ちょうど患者が自由を求めるほどにその身体を締め付けるように、主体の真理は自己拘束的な構造を持つ。それゆえにドゥルーズは「狂人の二つの体制」において、あえて古典的なパラノイア論を参照したのではなかったか?

だがそうした些細な点など、野蛮な書物として書かれた本書を前にすれば野暮な話であり、つまりはドゥルーズ的な意味で狂人になること、といった問題系に比べれば何ほどの重要性もない。真に狂人として語ることが叶うのなら、それは反精神医学の立場から語ることの対極にあり、もしそれが可能なら、現在でも十分にアンチエディプスなのであり、革命的なことである。
この記事の中でご紹介した本
あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学-/青土社
あたらしい狂気の歴史 -精神病理の哲学-
著 者:小泉 義之
出版社:青土社
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