見知らぬ記憶 書評|小林 紀晴(平凡社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年3月24日 / 新聞掲載日:2018年3月23日(第3232号)

著者の記憶がいつしか自分の記憶に 
本書全体を覆う記憶の不確かさ

見知らぬ記憶
著 者:小林 紀晴
出版社:平凡社
このエントリーをはてなブックマークに追加
 見知らぬ記憶(小林 紀晴)平凡社
見知らぬ記憶
小林 紀晴
平凡社
  • オンライン書店で買う
「記憶」というものは、脈絡なく不意に訪れる。そのやってきかたは、「襲う」、「襲われる」という動詞のほうがふさわしい。

「記憶」は視覚によってだけ植えつけられるものではなく、聴覚や嗅覚、味覚や触覚を刺激した経験もまた「記憶」として内蔵される。だから「記憶」が呼び起こされる際にも、視覚以外の感覚によって、眠っていた「記憶」が蘇ってくることも多い。

この本の著者は写真家だから、視覚にもとづく「記憶」をめぐる話が多く、写真も数多く収められている。それにしても『見知らぬ記憶』というタイトルは、こうした記憶のありようからしても、不思議な印象を抱かせる。

「記憶」とは、いつかどこかで経験した出来事の蓄積であり、なにごとかをきっかけに感覚的に呼び覚まされるもののはずである。そうした記憶が本人にとって「見知らぬ」などということがあるだろうか。「見知らぬ」という言葉がもつ不確さは、「身に覚えがない」と言い換えることもできる。忘却の淵から帰ってきた「記憶」は、身に覚えのない奇妙な経験として突然人に襲いかかり、慄かせるのだ。

著者は記憶力が他人よりもいいと自負する。

「街角の電柱の根元に牛が佇んでいて、その背中に傷があったとか、ツノに花輪がかかっていた」といった断片を鮮明に覚えているのは、ファインダーを覗くように物事を観察しているせいではないかというのだ。しかしこの本の全体を覆っているのは、やはり記憶の不確かさであり、記憶が襲ってくるタイミングの突然さである。

収録十二編中の一編「悲しき熱帯」は、飛行場でのロストバゲッジをめぐり、さまざまな記憶が交錯する話である(記憶の交錯はこの章にかぎらない話だが)。長期にわたる取材のため、スーツケースに丹念にしまいこんだ荷物の数々は、自分にとって本当に大事なものだったのか? ターンテーブルから出てくるはずのスーツケースが現れてこない不安と焦燥。しかし荷物がなくても新たに手に入れれば、旅を続けることは可能である。大切にしまいこんだというわけでもない「記憶」であれば、それが出てこなくても人生は続けられる。しかし、そうした曖昧で気ままな「記憶」によって、人間は支えられてもいるのだ。

民俗学者の柳田國男は、子供のころ台所の方から聞こえてくる木の燃える音と、漂ってくる匂いとで、毎朝目を覚ましたという。母親が小枝の束を少しずつ折ってはかまどに燃し付けていたのである。後年になって柳田は、ふと嗅いだ焚火の匂いから、その小枝がクロモジの木だったことに気づく。「そして、良い匂いの記憶がふと蘇ったことから、私の考えは遠く日本民族の問題にまで導かれていった」。

『故郷七十年』の柳田の「記憶」は、今では私の記憶のようになっている。『見知らぬ記憶』のなかの小林紀晴の「記憶」も、読者にとっていつしか自分の「記憶」になるにちがいない。
この記事の中でご紹介した本
 見知らぬ記憶/平凡社
見知らぬ記憶
著 者:小林 紀晴
出版社:平凡社
以下のオンライン書店でご購入できます
このエントリーをはてなブックマークに追加
畑中 章宏 氏の関連記事
畑中 章宏 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 日本文学 > 人の心の動き関連記事
人の心の動きの関連記事をもっと見る >