愛が挟み撃ち 書評|前田 司郎(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年3月24日 / 新聞掲載日:2018年3月23日(第3232号)

愛が挟み撃ち 書評
弛緩しながら振幅を加速する三角の動力

愛が挟み撃ち
著 者:前田 司郎
出版社:文藝春秋
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愛が挟み撃ち(前田 司郎)文藝春秋
愛が挟み撃ち
前田 司郎
文藝春秋
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「僕と緑、それとも僕と直子、どちらが主だと思う?」そんな質問を恩師にされたことがあった。大学近くの路上、『ノルウェイの森』が発売された直後の夕暮れ時だった。「僕と僕ですよ」と応えてしまった。すると恩師は、それを言ったらおしまいでしょう……という感じでニヒルに笑い、問答は終了。〈僕/直子/キズキ〉、〈直子/僕/緑〉が物語の動力としてどのように機能しているのかを考える有益な路上ゼミの機会をつぶしてしまった。若気の至り。そんなことを思い出してしまったのは、男女の三角関係を描く『愛が挟み撃ち』を読んだからだ。

四十歳になる俊介と三十六歳の京子、結婚六年目だが子どもは無い。子どもが欲しい二人は医者に相談。すると俊介には精子が無いこと判明する。子どもを諦めきれない俊介は、学生時代の親友水口に子作りをしてもらうことを思いつく。見ず知らずの人間の精液を使うより親友の子の方が愛せると思ったからだ。水口は依頼を承諾、初めの数回は結果を出せないが、俊介が媒介となった試みは成功する。そんなテン末が小説の初めと終わりに配され、いわば枠となっている。都会で暮らすアラフォー夫婦のありふれた日常で始まり、後半は一気にドタバタ喜劇的テイストが強まる。静的な初めを動的な終わりに変化させるのは、枠に挟まれた回想の部分である。二〇年程前、登場人物たちが学生だった頃の話である。吉祥寺、下北沢といった青春ドラマの定番の場の論理を背景に、自主制作映画で役者をかじった俊介(A)、その監督の美登里(B)、シナリオライター志望の水口(C)、小劇場の舞台に立つ京子(D)という男女の三角が織り込まれていくのだ。〈A/B/C〉、〈A/D/C〉、それから〈D/A/C〉という具合である。さらには京子が出演した芝居が自殺した男の影を引きずるカップルの話という『ノルウェイの森』的構図であることも三角の織り込みといえる。男女の三角関係は物語の動力なのだ。時空を超えて機能する。『イリアス』でも、『トリスタンとイゾルデ』でもそうであった。

ただしここでは独特のコミカルなトーンがある。それを主に担うのが俊介である。常識的であろうとする彼なのだが、ときに過剰に敏感/鈍感になり独りよがりの思考にとらわれしまう。彼がシリアスな身振りをすればするほど道化を演じることになる。たとえば3章の京子がでる舞台を見ながらの思考。人間の誕生が愛に起因するならば人間の存在に先行して愛があることになり、ならば愛は超越するものの存在を想定しなければ成り立たない……なんてことを考え続けている。中空の言葉を紡いでいるだけだが、「確かに……なら……ことか。しかし……だろうか。ならば……」という言葉の感触は何か深いことを言っているようではある。その感触に俊介は「気持ち良く」なってしまうのだ。彼は「神秘であるところの愛」の存在を信じないというが、それを語るのにふさわしい感触の言葉を持たないからなのだ。彼は“あの人”の声を内部に反響させ続ける恋愛主体ではなく、自己言及を避けるために堅い感触の言葉をかき寄せるつぶやく人なのだ。そんな俊介と当意即妙な発言能力はありながらシナリオは書けない水口と男の勝手にマイペースで対応する京子が三角を描く。弛緩しながら振幅を加速する三角の動力によって俊介は次のステージに移る。どこでもない場所にたどり着いてしまう『ノルウェイの森』の「僕」と比較すると……いや紙幅が……。
この記事の中でご紹介した本
愛が挟み撃ち/文藝春秋
愛が挟み撃ち
著 者:前田 司郎
出版社:文藝春秋
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