ひきこもりの国民主義 書評|酒井 直樹(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年3月24日 / 新聞掲載日:2018年3月23日(第3232号)

二重のポストコロニアル状況を乗り越えるために 
「恥知らず」な日本社会の現状を批判

ひきこもりの国民主義
著 者:酒井 直樹
出版社:岩波書店
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本書で酒井直樹は、カズオ・イシグロの代表作『日の名残り』(原作1989年)を紹介しつつ、かつての大英帝国の末裔たちが宗主国としての地位を喪失した現状を認められず、自意識の中に引きこもる零落した姿を描写する。それは英国だけでなく、帝国を喪失した戦後の日本の姿でもある、さらにはバブル経済が破れて東アジア諸国に対する経済的優位も保てなくなった現在の日本の姿でもあると指摘する。そして安部政権の登場は、こうした「国際世界から「ひきこもる」傾向と脱植民地化を拒絶する態度」としての「ひきこもり国民主義」を体現していると解釈する。

酒井は、こうした状況を作り上げているのが、まさに「ポスト・コロニアル状況(行政体制、法制度や経済支配としての植民地統治が終わったにもかかわらず、意識構造や集団的自己確定の様態としての植民地体制が存続する状態)」であると考える。日本においては二重の意味でのポストコロニアル状況である。戦前の日本帝国の喪失者であると同時に、戦後のアメリカ帝国に保護/占領された被植民地国の喪失者である。

この状況を乗り越えていくためには、現在に至る植民地主義の認識という「恥の体験」が必要になる。「なぜならば、恥をめぐる体験こそが、かつて植民地宗主国の側にいた人間と被植民地民の間に、それまでの支配・従属あるいは蔑視・憧憬の関係とは違った新たな社会関係を作り出す歴史的に創造的な過程だからです。」と酒井は考えるからである。しかし、「ひきこもりの国民主義」はその過去や現状を否認するという「恥知らず」に陥っている点で深刻な問題を抱えていると酒井は日本社会の現状を批判する。

「恥」という概念はアメリカの人類学者が内面的な倫理を持たない否定的な意味で用いたものだが、ここでは他者の眼差しに開かれた公共的意識として肯定的な価値観として読み替えられている。こうした西洋の眼差しのもとでの非西洋の価値付けを、非西洋の側で読み直していく行為が、精神分析でいう「転移」を介した「人間的な西洋人と「残余」」の「相互依存性」を非西洋側から翻訳しなおして、「新たな共同性を作り出すだけでなく、新しい主体を制作する」「西洋の脱臼」という、酒井ならではの実践なのだ。

酒井はこうした実践を「理論」と呼び、「自分を犠牲者の側に位置づけ、そうすることで正義の味方を気取ろうとするアイデンティティ・ポリティクスに対する防御策」と定義するが、理論は西洋の独占物ではなく、西洋人によって非人間すなわち「残余」としてまなざされてきた非西洋人にも可能な実践として横領されていく。以上の議論が本書の二本柱の一つ、第五章「パックス・アメリカーナの終焉とひきこもりの国民主義」の骨子である。

1997年に刊行された『日本思想という問題 翻訳と主体』で、一躍時の人となった酒井は、ポストモダン的な国民国家批判と主体批判で脚光を浴びた。多くの人たちは酒井の主張を国民国家の外部に出ることだと信じ、主体の脱構築とは、歴史の重みから主体を解放することだと誤読した。しかし、そうした期待に反して、「私が試みているのは、「恥の体験」と主体的技術とを接合することであり、そうすることで、日本のポスト・コロニアル状況を脱植民地化の方向から解明することなのです。」と述べるように、その後の酒井の議論は無制約な自由といった通俗的な脱構築論には向かわなかった。

むしろ、自らの置かれた植民地主義的な歴史的制約に内在しつつ、それを脱臼させる方向の模索のために、地域研究の中に潜行していった。その転機の象徴が、『米国/映像/日本 共感の共同体と帝国的国民主義』(2007年)における植民地での恋愛をめぐる「情動論」であったと評者は考える。情動論もまた酒井が「情」の議論として、処女作『過去の声』(1992年)の段階から展開していた問題である。

その議論が本書のもう一つの柱、第一章「<ふれあい>の政治」で展開される「同情」と「共感」の区別である。酒井は、「他者の内面性において生きられた、媒介されていない元の感情や感覚を共有することを「共感」とよぶならば、同情は共感と違っていて、感情移入の形式を必要としない。」として、同情を次のように定義する。
「苦しむ人…の身体が傷つけられているのだから、彼は痛みを無媒介に受容しているはずだが、それを看取りつつある私たちは彼の痛みを無媒介に体験することはできない。…ここでは同情は、苦しむ人と同じ情緒や感情を共有することではないのである。同情とは、比喩的な形象化によって撃たれることであって、共有されるのは、情熱、すなわち、他なるものによって変容されること、なのである。」

こうした議論の前提には、<ふれあい>という情動的な身体行為が想定されている。酒井は<ふれあい>を「能動にも受動にも転じうるある微妙な両義的な瞬間」として、「穢すことと穢されること、侵すことと侵される(あるいは犯される)こと、変容することと変容させられること、傷つけることと傷つくことが分岐する以前の事態を示唆している」として、<ふれあう>瞬間を理解する。

<ふれあい>を「情念と社会性、この二つの主題が重なり合う領域」として捉える酒井は、ここで国民国家という主体を問題にする議論に立ち戻る。「内面性が実体化されたときに、<ふれあい>から隔離された、私の小さな主権領土である内面性において、あたかも私の一存で勝手に処理できるものであるかのように情動が理解されてしまう。このように理解された情動を私は「感傷」と呼んできたが、いったんこのように情動を理解してしまうと、人々が情動を分かち合う形態は、<同情>ではなく<共感>ということになってしまうだろう。」と述べる。

そして、「十八世紀以降でこのような共感の共同体の範型はいうまでもなく国民共同体である。感傷はまさに国民国家にふさわしい情念の形式なのだ。」と結論付ける。具体的には、天皇の眼差しの下に内閉化した均質な共同体を作り出した近代日本の国民国家が、触れ合うことを拒否した感傷の共同体として批判される。しかし、情動のナショナリズムはどこにでも存在する。さらに評者から言えば、それは日常の人間関係の実践でもある。

ナショナリズムを批判する学者共同体においても、論争者を仮想敵として想定することで閉域を作り出すかぎり、ナショナリズム批判という言説に呑みこまれて、現実否認のひきこもり共同体を作っているにほかならない。それは酒井直樹を指示する我々読者と酒井直樹の関係においても、十分に起こりうる。事実、そうした関係によって彼の議論は骨抜きにされてきたように感じる。

では、その骨抜きにした主体を作り上げているものはだれなのであろう。酒井がしばしば言及する精神分析の議論を引き合いに出すならば、ジャック・ラカンの言うところの「謎めいた他者」である。酒井が天皇制の例で言うように、あらゆる主体は他者にまなざされることで主体として生れ落ちる。謎めいた他者は天皇であり、国民国家であり、眼前のあなたでもある。

評者はかつてそれを「どこにもいないあなた」と呼んだ。その他者の眼差しあるいは声によって、我々は国民あるいは私という主体として生れ落ちる。しかし、同時にその生は他者が享楽する快楽に搾取され、喜びつつ苦しむダブルバンド状態に陥ることになる。酒井が本書で触れていないイシグロの最新作『忘れられた巨人』(2015年)は、まさにこの問題に取り組んだ作品である。そこから酒井は他者の眼差しから主体が解放されることを説くが、評者はむしろ読み替えることが肝要であるように考える。どのように埋め込まれた歴史の記憶から、主体を作り上げると同時に解放していくか、そこに今後の主体化論の課題がある。酒井直樹氏の著作との対話を通して、さらに考えていきたい。
この記事の中でご紹介した本
ひきこもりの国民主義/岩波書店
ひきこもりの国民主義
著 者:酒井 直樹
出版社:岩波書店
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