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更新日:2018年3月30日 / 新聞掲載日:2018年3月30日(第3233号)

追悼 石牟礼道子

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第5回
かなたの人/髙山 文彦

私が初めて石牟礼さんに会ったのは、今から八年前の三月十四日のことだった。渡辺京二さんが「詳伝年譜」(『石牟礼道子全集別巻』藤原書店)に書いておられる。
〈二〇一〇年、リデルライトホームでの生活は快適で、相変らず見舞い客が多かった。三月十四日、髙山文彦が初訪問。道子は甥っ子のような親近感を覚え、以後親しく交わることになる〉

石牟礼さんは大腿骨を骨折し、二十四時間介護の必要から、熊本市内の特養老人ホームに入所しておられた。渡辺さんに導かれて入った居室には、この世の片隅にやっと生まれ出たような危うげな童女が静かに立っていた。その人は私を見るなり、なんとも言えぬ笑みを顔いっぱいにひろげ、つられて私も顔いっぱいに笑みを返した。

なにか私はこの人といると、照れくさいような、懐かしいような、怖いような感情にとらわれた。叔母のように慕わしく思うのに、うまく言葉をかけられないのだ。年月を追うごとに衰弱してゆく彼女の手を撫で、髪を撫で、肩や足を揉んだりした。抱えてベッドに寝かせてやろうとすると、骨が直接手のひらに感じられるまでになっていた。
「草の一本も生えないシベリアの氷原で暮らしている民族が、犬橇で千キロほど南下していったら、一本の大きな木に出会ったそうです。彼らはどうしたと思いますか」
「さあ…、どうなさいましたか」
「犬橇を捨てて駆け出して、木の前に額づいたそうです」
「ほう、駆け出して、額づいた!」

このときの喜びようは、他に見たことがない。手料理を並べる渡辺さんに、今聞いたばかりの話を熱心に語りかけるのである。宇宙や自然から言葉と物語を授けられたこの人は、こうした話が大好きだった。

しかし一方で、故郷喪失の悲しみに耐え続けねばならぬ人でもあった。自らすすんで出郷した者としての、ひりつくような加害の痛みに苛まれていたのではあるまいか。旺盛な生命力に恵まれたこの人は、あれほど怨念を滾らせてきた近代文明のど真ん中を生きながら、以下のように他人に託して自己のありさまを表明する人でもあった。
〈人びとは、後に残して来た故郷の声を背負い、樹の下蔭に立ってそれとなく見送っていた祖父母とか古老の姿から、魂の形見をあたえられて出郷したのである。ふたたび帰ることがなくとも、それは一人の人間の心の奥処や夢にあらわれて、その人の一生につき添っていた〉(『ちくま日本文学全集 宮本常一』)

宮本常一についてこのように綴る彼女は、自己の流離の宿命を宮本に重ねている。その宮本とは〈彼方を夢みて旅の人となった〉のであり、〈その旅は山川の召命を受けて、人の住む大地を生起さすべく出発された感がある〉と書いているのも、自己の表明であったろう。

この人は「水俣に帰りたい」とは死ぬまで言わなかった。離れて暮らしてきた夫が死ぬときでさえ「水俣に行きたい・・・・」と言った。彼女は「ふたたび帰ること」をあらかじめ自ら断った、たいへん自覚的な故郷喪失者であり、近代文学の洗礼を水俣の片田舎でいち早く雷のように受けて、「彼方」へと旅立ったのである。そうして、ほんとうに彼方の人となってしまわれた。

石牟礼さんは息を引きとる寸前、それまで閉じられていた両目を不意にひらき、涙を一滴こぼしたという。一人息子の道生氏が喪主挨拶で披露したこの話を私はときどき思い出し、あれは悲しみの涙であったか、感謝の涙であったかと考えてみるのだが、答えはわからない。この世の最後にあって、なおもこのようにドラマチックであったことは、私のみならず彼女に関係した多くの人々にとって慰めとなるだろう。

渡辺さんは彼女の死を「人々に花をまき散らして死んだ」と言った。まさに天から花びらが舞い散ってきそうな今日の空もようだ。(たかやま・ふみひこ=作家)
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