『スタア誕生』 書評|金井 美恵子(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年3月31日 / 新聞掲載日:2018年3月30日(第3233号)

意のままに再び見出された 幼年期としての傑作小説

『スタア誕生』
著 者:金井 美恵子
出版社:文藝春秋
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ボードレールは、「天才」を「意のままに再び見出された幼年期」(「現代生活の画家」)と規定した。『スター誕生』は、『悪の華』の詩人による指摘の例証である。

しかし、この小説が「幼年期」の描出であるのは、語り手が小学生の「私」であるからではない。語りの中心は、「私」が言葉を交わした、彼女の両親や祖母、モナミ美容室のマダムやその三人の娘、パチンコ屋の玉売り娘やこの小説の題にも係わる金魚の娘のみっちゃんなどから見聞きした事柄であり、少女の目や耳を通して感受された「大人」の世界であるのだ。にもかかわらず、ここに描出されたのは、紛うことなき「幼年期」である。

小説は、その命名にも係わる、金魚の娘が大映のニューフェイスになることの機縁となったエピソードから始まる。「私」が父親に連れられて行った『スター誕生』を上演する映画館で開催されたニューフェイスの公開審査の様子、さらには映画館で父親が買ってくれたキャラメル等に到るまで細かに描写される。この細密描写こそ、「幼年期」の再現を可能にするものだ。かつての映画館には、たとえば、遊興地区での立地に代表されるような、祝祭的雰囲気=猥雑さがあった。それゆえ子どもにとって映画館に行くことは、大人の世界を垣間見るような刺激的な体験だった。ボードレールの指摘した「幼年期」とは、「生のいかなる様相も色あせては見えない」時期であり、映画館を訪れた「私」がその時の体験をつぶさに記憶に留めているのも、些細な体験に到るまで心躍らせるものであったからだ。故に詳細な描写は、「幼年期」特有の多幸症的な空気をありありと読者に伝えることができる。

しかし、この世界が、「不幸」とは全く無縁ではないことにも注意すべきだ。「私」の父親は愛人と家を出奔することになるし、金魚の娘やマダム等この小説の多くの登場人物も家族関係における不幸を抱えている。にもかかわらず、この小説の語りが幸せな空気を帯びるのは、「私」がそうした不幸を痛切な経験として認識されないように周囲の人々によって保護されているからだ。「私」の周囲で発生する「不幸」な事態に「幼年期」特有の無責任さで向き合えるような配慮の下に「私」はあるのだ。

ただ、小説の終わり近くの衝撃的指摘により、これは「私」の小学生時から数十年先の時点からの回想であることが明らかにされ、その点でこの小説も、マルクスの言う「大人は二度と子どもにはなれ」ず、「できるとしたら子どもじみた姿になるだけ」(「経済学批判への序説」)のことなのかもしれないという疑念を抱かせもする。

しかし、やはり小説は「意のままに再び見出された幼年期」なのだ。それは、小説でしばしば登場する言葉をめぐる記述に示されている。金魚の娘は、その徒名の由来となるアザのある鳩尾をみずうちと発音するし、金魚の娘が沢村貞子からその食べ方を教示されたゆで卵をモナミ美容室の末娘らはうで卵と発音する。こうした地域によるあるいは個人的な発音の偏りや過ちは、成長する過程でいづれは「矯正」されることになるだろう。だが、この小説では、一つの語を巡る異なる発音が排除されることなく共存する。発音のエピソードに示された、様々なものが排除されることなく多型倒錯的に共存する「幼児期」のあり方が見事に示されている点だけでも、この小説は、やはり「天才」の手による「幼児期」の再現といえるのだ。
この記事の中でご紹介した本
『スタア誕生』/文藝春秋
『スタア誕生』
著 者:金井 美恵子
出版社:文藝春秋
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