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更新日:2018年4月6日 / 新聞掲載日:2018年4月6日(第3234号)

中地義和教授最終講義「ランボーとその分身」レポート

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中地 義和氏
三月二日、東京・本郷の東京大学法文二号館一番大教室で、中地義和教授の最終講義「ランボーとその分身」が行なわれた。通常の講義と同じく九〇分間にわたって、長年研究をつづけてきたアルチュール・ランボーとその詩の魅力について語った。講義の模様をレポートする。 (編集部)
第1回
〈私〉の二重化

中地氏は冒頭で、タイトルに込めた意味について触れながら、次のように述べた。 
中地 
 「分身」という言葉について、若干説明が必要かと思います。これは、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」のように、ランボーとそっくりな人間がもうひとりいて彼に付きまとうという、いわゆるドッペルゲンガーのことではありません。『ジーキル博士とハイド氏』のように、ひとりの人間が変身し、二つの身体、二つの人格のあいだを行ったり来たりするという話でもありません。あくまでも一篇の詩の中で、「私」ないし「僕」と称して詩を紡いでいく語り手の背後に、もうひとりの〈私〉、もうひとつの視線、意識が控えており、語り手から揶揄されたり、鼓舞されたり、逆に語り手に皮肉や忠告を差し向けたり、語り手のモノローグの無言の聞き手になったりする。そういう様態を指します。わずか五年のあいだに大きな変容を遂げるランボーの詩のどの局面においても、〈私〉が二重化する事態が確認できる、それが彼の詩を動かす推進力になっているということです。もちろん、すべての詩で作動しているのではありませんが、〈私〉の分裂は、詩人の自己批評意識、ランボーの詩の内省的性格、あるいは倫理性の表われであると言えると思います。
*  *  * 
最初に取り上げられたのは、十五歳の時に書かれた初期の定型韻文詩「音楽会で」。ランボーは「冒頭三節で、シャルルヴィルの駅前広場で演奏される軍楽隊の音楽と、そこに集う民衆を、風刺画のタッチで描きつつ、末尾では、語り手自身を、この〈画〉の中に描き込んでいく」と、中地氏は指摘する。 

けちな芝生に仕切られた広場は
樹木も花もすべてが整いすました小公園
暑苦しさに喉を詰まらせ 息たえだえのブルジョワたちが
木曜の夕方 その汲々とした愚劣ぶりを引っ提げてやって来る。

―軍楽隊が 公園の中央で
「横笛のワルツ」を奏でながら筒型軍帽シャコを揺すれば
―周囲では きざな若造が前列を闊歩し
公証人がイニシャル入りの時計飾りにぶら下がる。

鼻めがねの年金暮らしの連中は 音が外れるたびにずっこける。
でっぷり太った役人たちが これまた肥えた奥方を引き連れ
かいがいしい象使いといった風情の女中が
裾飾りを広告のようにひるがえして そばに控えている。
[中略]
―ぼくはといえば 学生のように胸をはだけて
緑のマロニエの下のすばしこい小娘たちを目で追いかける。
娘たちは百も承知で 笑いながらぼくのほうに
ぶしつけなものをいっぱい含んだ目を向ける。

ぼくは何も言わず ほつれ毛が模様を付けた
白い首筋の肉付きをなおも見つめては
胴着や薄手の衣装に包まれた両肩のカーブから
神々しい背中へと視線を這わせる。

そうしてたちまち狩り出したのだ 靴もストッキングも…
―かっかと熱くなりながら 娘らの肉体を想像する。
娘らはぼくを変な奴と思い ひそひそ話をしている…
―と ぼくの荒々しい欲望が彼女らの唇に喰らいつく… [異本あり]



中地 
 ランボーは最後に、自身にも風刺の毒を浴びせています。皮肉が自己皮肉に、揶揄が自己揶揄に転じる、ランボーの詩に典型的な展開です。一人称主語が、このように語り手と登場人物に分化すること自体は、それほど珍しいことではありませんが、戯画的な自己描写、自己肖像が、もっとも見やすい単純な形で出ているのが、この「音楽会で」という詩です。
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