「気鋭の社会学者」の優れた小説  古市憲寿「彼は本当は優しい」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年4月9日 / 新聞掲載日:2018年4月6日(第3234号)

「気鋭の社会学者」の優れた小説 
古市憲寿「彼は本当は優しい」

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古市憲寿「彼は本当は優しい」(文學界)は、事前に「気鋭の社会学者」が書いた小説と聞かされて―とりあえず題はダサいし―ブンガク臭だけをまとった悲惨なものを読まされるのかと身構えていたが、優れた小説だった。我が家にテレビはなくとも、作者がテレビに頻出している存在なのは知っている。局内のそれも報道系の番組制作事情に通じてないと描けない設定で、プロパーな作家には得がたい便宜をうまく活用している。大賀泰斗は、漠然とした野心がないわけではなさそうだが、特別な将来像ヴィジョンを持ってもいないために気負いも薄くみえる、しかし要領の点では有能な局付きのアナウンサー。年齢設定は三十九歳だが、最近というか、ここ数ヶ月間でさえ、同年齢の人物を主役にした小説が連続したのは、かくもロスジェネという特定の世代の行く末が注目されているのか、それとも一般に現代社会の人生の転機がこの歳頃に集中するのか。末期の大腸癌で数ヶ月の命という母親(の介護の必要)と向き合う間、仕事の処理能力に長けているがゆえの軽薄さと倫理的感情(や愛情)との折り合いを探っていく泰斗の思考が描かれる。

技術的にいえば、文章の情報配置の仕方が論述的だという難癖を付けることはできる。が、その運びに全く無駄がないのは美点である(泰斗の思考に矛盾がないということではない)。よく散文芸術は「無駄」を許容してこそ、という意見があるが、勘違いである。音響派の音楽にノイズが乗せてあるからといってそれを無駄な音とは呼ばない。結論を急がないことが文学的な正義なのだという意見もあるが、無駄とは何の関係もない。一番ダメなのは、その無駄を意図する場合である。例えばサッカーの試合で遅延行為をすることが、逆に勝利という〈答え〉を性急に求める功利的な短絡なのと同じように、文学の価値をますます損なうだけである。事実、本作の実質的なテーマは、そのような政治的な二者択一(短絡的な態度決定)に対する疑いである。物語の一方では、泰斗の仕事に絡んで、憲法九条の改正をめぐる国民的な議論が国民投票運動期間まで進んでいくのだが、賛成と反対の二者択一を迫る圧力が通奏低音のように泰斗の思考を揺さぶり続けている。それと並行して、母親の手術をするか対処療法で済ますか、延命措置をするか否か、死の瞬間に立ち会うべきか否かなど、より一般的な「判断」をめぐる倫理的な考察が泰斗の頭を絶えず働かせている。しかし泰斗は、仕事と愛情の板挟みといった古典的な悩みや苦しみを抱えているのではない。なぜなら彼は、例えば家族愛や政治的信条や病名といった、判断の基準となってしまう固定観念を〈括弧入れ〉することができるからだ。周囲の人間が〈決断の文法〉に流されるのに対して、彼は決断しないことも正当化する論理を持ち合わせている。つまり、教義的な判断をしないという判断ができるのであり、そのために、ほとんどの意志決定に躊躇らしい躊躇をみせないのだ。実際、話のなかでは、二者択一的な決断を下さなくとも、状況の推移に合わせて選択肢が取り消されたり、相手の意志が自分に先行したりする(母親自身から死への立ち会いを望まないことを告げられたりする)ことで、事態は悪化に転げることなく自然な展開や時に解決をみている。物語の一方で進行している改憲派の熱狂や便乗的な勢いに、泰斗が不安を感じるのはそのためだ。近代文学が長らく描いてきた、優柔不断でグズグズと行動を見合わせる人物像とは、似ているようで似ていない。そこが新鮮。次回作があるなら楽しみにしたい。ただ、泰斗自身の母親に対する態度もそうだが、グズグズな近代文学が得意とした身体性や生理的感覚に向き合うことをできるだけ避けようとするロジカルな内容なので、多産は難しそう。

並んで掲載の深田晃司「海を駆ける」(文學界)も、同じように小説家でない人が書いた小説だが、明暗を分けた格好である。本年五月公開予定の同名映画の監督自身による小説版。いわゆる「震災後文学」の一種に属する題材や着眼はともかく、残念ながら小説の叙述としての技術が足りない。説明的にすぎる描写が多いのである。まず人物の属性や人間関係の情報提示から入り、文脈設定を不足なく文に起こす書き方は、極端な話、脚本のト書きの肥大に見える。また、映画でカメラの視点人物を切り替えてシークエンスを転換するように、章ごとに登場人物の心理を切り替える構成をとっているが、折角民族性の違う各人物の思考の働き方も説明調のため差異が顕れず、人物間の認識のずれが露呈されるのでもない。スマトラ沖震災の津波の記憶を抱えるアチェの海を象った精霊的な存在としてラウという人物が鍵なのは確かなのだが、キャラ立ちせず、十分な役割を発揮しているようにも思えない。正直、集中できない読書となったが、あくまで本作単体の印象である。小説の場合、生真面目な叙述はマイナスになることが多い。前作『淵に立つ』は未読、映画は佳作だと思ったが、整合性の取れない印象的なカットや演技は頻発していた。文章にも同等の大胆さが欲しかった。

小山内恵美子「あなたの声わたしの声」(すばる)は、別の意味で真面目な小説である。印刷会社の自分史専門の自費出版部でゴーストライターとして働く「わたし」が、初音さんという八十歳の依頼者の取材をしている最中に、突如声を失う。似たような設定では、突発性難聴になる女性を描いた小川洋子「余白の愛」(一九九一)が思い出されるが、本作は聴覚だけでなく発声も不能になる症状。メディアの発展で我々はリアルな声が本来持っていた人と人を繋ぐ〈媒介性〉を逆説的に失いつつある。他人のゴーストを代弁する霊媒者ミディアムとしての代作者の役割や、書簡という古いメディアの意義を問い直しながら、初さんの心の「音」を掬い出すのである。悪くない誠実なアイデアである。が、他の誰でもないこの「わたし」が声を丸ごと失わなければならなかった状況的な切実さと身体的リアルさが、「わたし」自身の生活の姿を通して立ち上がってこない。話の必要上、声という機能的な概念・・を失った印象しかもたらさないのだ。結果的に、「わたし」がらみの描写に無駄が生じている代わりに、初音さんの「自分史」の内容は薄く、彼女達のコミュニケーションの深化も最後まで通念的な良心に絡め取られたままなので、食い足りなさが残ったというのが本

その他にも言及しておきたい作品を幾つか。岡本学「俺の部屋からは野球場が見える」(群像)は、なんだか面白いのだが、その面白さを説明するのが難しい。同棲していた女が癌に冒された頃、「私」は長年連絡を取っていなかった小笠原から、アマチュア野球の試合を実況した奇妙な手紙を毎月受け取るようになる。住職の長男として生まれ、仏教の奨励する「諦め」の思想を嫌った小笠原は、「意志」をもって生きることをモットーに、大学卒業後に会社を起こし成功者となった後、脱税容疑で逮捕、自己破産して郷里に引き上げていた。逆に人生を強制的に「諦め」させられた敗者だった。女の死を看取るために「私」が通う病室との対比の中で、小笠原の手紙の中に広がる「遠く外野までポカンとした空間がすがすがしく突き抜けている」球場と選手たちのプレイのイメージが、形而上絵画的な不思議なもの哀しさの感覚を催す。人生のマウンドを降りた男が綴る「フィールド・オブ・ドリームス」。実はミステリーにはよくある白日夢的感覚なのかもしれないが、私の守備範囲でいうなら、探偵小説にかぶれていた大正時代の純文学のような匂いの作品。理に落ちていく後半の収束は予想内のもので、その匂いが消えてしまうのが惜しい。

四元康祐「尿道カテーテルをつけたまま詩が書けるか?」(群像)は、前作「奥の細道・前立腺」の続編で、前立腺の摘出手術後の回復期間を描く。場面が病室のベッドの上に終始するので、前作より内省的になった。周囲の事物に対する観察量が増したのに反比例して、軽妙さが後退し、その分の笑いのキレが弱まった。下ネタ自体は健在だが、尻の「奥の細道」だとかイジ・・コフスキー先生の触診だとかのしれっとしたオヤジギャグが見えないのも少々寂しい。それでも相変わらず、自作と引用の短詩を歌物語よろしくストーリーに織なすセンスは抜群である。結末で、下腹部に前立腺なき「空洞」を詩的想像力の源泉として抱え込むという変形的な〈悟り〉の認識に辿りつくのもいい。

最後は、青山七恵の新連載「私の家」(すばる)の予定だったが、紙幅が尽きてしまった。「私の家」に固有の記憶と、我々読者が個々に抱えている家の記憶が一致するはずはないのだが、しかし普遍的な「家」の姿を浮かび上がらせてしまうという、個と類の調和をさぐる唯一無二のテーマとしての―小津安二郎の映画のような―家族の世界が描かれようとしている、気がする。期待してみたい。
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