外の世界 書評|ホルヘ・フランコ(作品社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年4月14日 / 新聞掲載日:2018年4月13日(第3235号)

ガルシア=マルケス的要素とバルガス=リョサの語り

外の世界
著 者:ホルヘ・フランコ
出版社:作品社
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外の世界(ホルヘ・フランコ)作品社
外の世界
ホルヘ・フランコ
作品社
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ラテンアメリカ文学の〈ブーム〉が残したものといえば、真っ先に浮かぶのがガブリエル・ガルシア=マルケス(より正確には彼の『百年の孤独』)がその代表格とされる「マジック・リアリズム」の一般化なのだろう。その絶大な影響力に異議を唱えるつもりはないにしても、過度の一般化は反動を生む。ガルシア=マルケス的なものを求められることに対して、彼らに続く世代の者たちが激しく反発を抱いた事実は忘れてはならない。

まさかガルシア=マルケスのイメージへの反発からではあるまいが、創作に当たってはバルガス=リョサ的な要素に訴える者が多いのも、また彼らの特徴と言っていいのかもしれない。近年のすぐれた作品の数々を読んでいると、そんなまとめをしてみたくなることがある。この場合の「バルガス=リョサ的な要素」というのは、二つ以上のストーリーを少しずつ順に語っていく、映画用語にいうカットバック(必ずしもフラッシュバックである必要はない)の語りの手法を用いるということだ。それはバルガス=リョサが一貫して保持している技法と言っていい。若い世代はそれを手本にしているようなのだ。

ホルヘ・フランコも「バルガス=リョサ的な要素」をふんだんに利用する作家であることは、この前に同じく田村さと子によって訳された『パライソ・トラベル』(河出書房新社、二〇一二)などに確認できるだろう。今回の『外の世界』ではこうした観測がさらに強化されるはずだ。メデジンの大富豪の誘拐事件を扱った本書が提示するのは、一、誘拐された大富豪ドン・ディエゴと誘拐犯グループの主犯格エル・モノのやり取り、および誘拐グループの行動、二、ドン・ディエゴがドイツで知り合ったディータと家庭を築いていく過程、三、ディエゴとディータの娘イソルダを憧れをもって眺める「僕」の語り、四、誘拐発覚後のドン・ディエゴの周囲の対応、の四つのプロットが次々と、小出しにされて語られていく。それは読者を飽きさせないためのサービスと言っていいだろう。

語られるそれぞれのプロットにおいて重要なのが、一、エル・モノがフリオ・フローレスの詩を諳んじる詩人であること、二、ドン・ディエコが城に執着するワグネリアンであること、三、イソルダが一角兎の住まうファンタジックな妄想の世界に生きていること、四、ドン・ディエゴ捜索のためにベルギーから招喚されるマルセル・ヴァンデルノートが霊媒師のような存在であること。まとめるに、中心人物たちの言わば「キャラが立っている」(あまり使いたくない俗な表現だが)のだ。そのことはまた、『ロサリオの鋏』(河出書房新社、二〇〇三)以来のフランコの創作手法でもあるに違いない。

しかし、ところで、この「キャラが立っている」作風といえば、バルガス=リョサよりはガルシア=マルケスが思い出されることは衆目の一致するところだろう。バルガス=リョサにはリトゥーマといういくつかの作品に現れる人物がいるにはいるが、さほどのインパクトはない。これに対し、ガルシア=マルケスの作品ではアウレリャノ・ブエンディア大佐や『族長の秋』の大統領など、私たちは「キャラ」をたくさん思い浮かべることができるはずだ。「マジック・リアリズム」でないガルシア=マルケス的要素とバルガス=リョサの語りとの融合がホルヘ・フランコなのだと言っていいのかもしれない。(田村さと子訳)
この記事の中でご紹介した本
外の世界/作品社
外の世界
著 者:ホルヘ・フランコ
出版社:作品社
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