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更新日:2018年4月24日 / 新聞掲載日:2018年4月20日(第3236号)

日比谷公園の釈尊降誕花まつり

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年々盛大になって来る釈尊降誕花まつりは大正七年四月七日及び八日、日比谷公園に於て其の第三回を挙行した。一万人以上の可憐なる少年少女は手に手に水仙、桃、梅等の花束を持ち唱歌を歌いながら参会、先頭印度僧の扮装をなせるは早大講師武田豊四郎氏である。(「歴史写真」大正七年五月号)

四月八日はお釈迦さまの誕生日を祝う「花まつり」が、全国の寺などで開かれる。花御堂を作って、そこに置かれたお釈迦さまの像(誕生仏と呼ぶ、生まれた時の姿)に甘茶をかける風習は、いまでは街の広場なども見られる「お祭り」で、日本の伝統行事かと思っていたら、大正時代から広まったものだった。本来は「灌仏会」と呼ばれる仏教行事である。

日本でのルーツは遠くさかのぼり、西暦六〇六年に元興寺で誕生祭が行われたと『日本書紀』に記録されている。しかし、「花まつり」として広くにぎやかに祝うようになったのは、明治も終わってからになる。東京の日比谷公園に花まつりと命名して、仏教各派が終結して開いた盛大な祭りが始まり、毎年恒例になっていた。

この一枚は、大正七(一九一八)年四月八日に撮影された第三回の情景、『歴史写真』五月号に掲載されたものだ。前日には、少年少女一万人余りが花々を手に唱歌をうたいながら公園内を行進し、この日は仏教徒や女性団体などの人々が公園を埋めたと記事にある。東京市内の電車運転手や車掌は花まつりの記章をつけて祭りを盛り上げた。

ターバンを巻き、花輪を飾って仮装行列のような「お練り」の先頭を歩くのは早稲田大学武田豊四郎講師、仏教学者として知られる人物だった。

この「花まつり」について、近年にネットにいくつもの情報が載るようになって、思いがけない祭りの始まりを知った。

明治三十四(一九〇一)年、ドイツに留学していた僧侶や、憲法学者美濃部達吉ら十八名が、ベルリンのホテルに集まって、誕生仏を花で囲んで「ブルーメンフェスト」を開いた。ドイツ人も参加して三百人にもなったという。このドイツ語を翻訳したのが「花まつり」だという故事を、江田智昭さんというドイツ惠光寺におられた僧侶がブログに書いている。このときの参加者の巌谷小波(児童文学者)が命名したともいう。

このとき、ドイツに滞在していた渡辺海旭わたなべかいきょくという浄土宗僧侶が、のちの日比谷公園「花まつり」の実行委員でもあるので、ベルリンに始まった集まりが日本の祭りにつながったらしい。

さて、日比谷公園の花まつりは、安藤嶺丸れいがんという浅草花川戸の真宗大谷派の僧侶が「東京連合花祭り会」をつくって大衆化した(『朝日日本歴史人物事典』)。「花さかじいさんお釈迦さま」のキャッチコピーも作ったという。

祭りが終わってまもなく、日本列島は「米騒動」にゆれ、日比谷公園も焼き討ちの群衆が押し寄せ、あるいは大正十二年九月一日の関東大震災では被災者避難のテント村ができた。

そんな激動の波をかぶって、花まつりは終えてしまったかとおもえば、昭和二(一九二七)年の『アサヒグラフ』に、日比谷公園を埋めた祭りの群衆写真が掲載されている。復興の喜びを込めて祭りは再開したようだった。

明治維新で、政府は仏教を排斥して国家神道を国民の宗教にしようとした。それから半世紀たったこの時期に、「花まつり」を各派合同で開く背景には、仏教復活を目指す共通の危機感があったかと考えられる。

そして、参加した人々には仏教への「郷愁」が色濃くあったのだろう。「寺院消滅」の現代に、忘れられた日比谷公園の祭りである。(いわお・みつよ=ジャーナリスト)
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