表現空間論 建築/小説/映画の可能性 書評|鈴木 隆之(論創社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年4月21日 / 新聞掲載日:2018年4月20日(第3236号)

未来を拓く突破口
表現と空間の旅 
時間と空間の交点で作動する鋭敏な感覚

表現空間論 建築/小説/映画の可能性
著 者:鈴木 隆之
出版社:論創社
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小説を書く時、そこに一個の空間を作り上げようとする意志が働く。と、こう書きだしてから、空間の感覚を表現するという意志を持った小説を書くことは、今や忘れ去られようとしているのではないかという疑問が湧くのをそっと脇によけなければならなかった。多くの人は小説はストーリー(筋)を楽しむものであると考えているのではないか。小説の感想として使われるネタバレという言葉がそれをよく表している。映画もまたしかりで、映画が作り出す空間に心地よく身を置くことは少なくなった。映画の感想にもネタバレという言葉が使われる。しかし、建築にはネタバレという言葉があてはめられることは少ないだろう。ネタバレと言う言葉が使われないかわりに建築では、建築が作り出す空間は無視されると言ってよいのだろうか。現代建築はよほど風変りな物でない限り、そこに建物があることだけ無視される場合も多い。極楽往生を夢見て作られた中古から中世にかけての寺院建築のように、建築それ自体が鑑賞の対象となることはない。

かつて人々は自分の死後に極楽を夢見た。後生のために祈りをささげた。そこで見通されているのは死後の自分が存在する世界である。現代の私たちが見るのは死後の自分が存在する世界ではない。私たちは未来を想像する。未来は私がいなくなったあとのこの世である。鈴木隆之「表現空間論」を読みながら、吉原幸子の詩「むじゅん」を思い出していた。詩人は歌う。

わたしはまもなくしんでゆくのに
せかいがこんなにうつくしくては こまる


ここで歌われているのは、近代が発見した「とおいゆきやま」が「ゆうひにあかくそまる」光景だ。それは東北の山かもしれない。あるいは日本アルプスの一画かもしれない。いずれにしても一九三二年生まれの詩人はそこに自分が存在しなくなった未来を見ている。小学校へ上がる前に日中戦争が始まり、やがて太平洋戦争へと拡大した戦争は詩人が中学生になる頃には敗戦と言う終結を迎えた。思春期を迎えた詩人の行くてには「未来」があったに違いない。未来と希望は限りなく接近していた時代を生きた人だ。

しかし鈴木隆之は「〈未来〉という概念そのものの消滅」と説く。さらに「『失われた未来』に対し、僕たちは『別の未来』を設計することができるのか?」と問いかける。小説、映画、そして建築と、この問いかけを軸にここ三〇年から四〇年の空間体験とも呼ぶべきものをたどりなおして行く。小説や映画、そして建築の単なる批評ではない。手触りのある体験としてそれらは語られる。そして、読者としての私はしばしば戸惑わずにはいられなかった。時間として感受されていたものが、空間として語られることに深く戸惑った。小説を書き映画に関わり、そして建築家としての仕事をするこの表現者は、時間と空間の交点で鋭敏な感覚を作動させる。確かに物語は時間と空間の交点に潜んでいる。時間と空間の交点には生者と死者が共存するかたちが作られている。「初期のモダニズムが示した『建築』や『文学』の可能性を現代のテクノロジー下に置くことができるのなら、突破口も見えてくる」と著者が語るこの本は突破口への旅の記録であるとも言える。旅は空間の移動であり、空間の移動の中に時間が含まれている。空間の移動に向けられるまなざしのなかに私たちが今まで知ることがなかった「未来」が拓けてくる。

二〇〇二年に亡くなった吉原幸子は九五年発表の「むじゅん」の最後を次のように締めくくっている。

わたしはまもなくしんでゆくのに
みらいがうつくしくなくては こまる!

この記事の中でご紹介した本
表現空間論  	建築/小説/映画の可能性/論創社
表現空間論 建築/小説/映画の可能性
著 者:鈴木 隆之
出版社:論創社
以下のオンライン書店でご購入できます
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