アルツハイマー病の謎 認知症と老化の絡まり合い 書評|マーガレット・ロック(名古屋大学出版会)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年4月28日 / 新聞掲載日:2018年5月4日(第3237号)

老いの科学が人々の生活をどう変えるか 
認知症の複雑さと「先制医療」の生み出す葛藤

アルツハイマー病の謎 認知症と老化の絡まり合い
著 者:マーガレット・ロック
出版社:名古屋大学出版会
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世界的に高齢者人口が増え続け、地球規模での認知症流行の危機に直面している現在、病因解明に向けた科学者の競争も過熱化している。そもそも認知症とは、病理なのか、それとも自然な老いの一部なのか?この数十年間多くの専門家が主張してきたように、脳にアミロイド斑が溜まることがアルツハイマー病の原因であるならば、それが蓄積し始める40代に遡って食い止めれば、認知症そのものを防げるのではないか?さらに、中高年に大規模な遺伝子・脳神経科学スクリーニングを実施し、認知機能の衰えがみられるリスク群軽度認知障害「MCI(Mild Cognitive Impairment)」に早期介入するならば、個人の不幸のみならず社会的損失をも防げるのでは――このような予防への期待が高まる中で、マーガレット・ロックの『アルツハイマー病の謎』は、認知症という現象の複雑さと、健康な人にまで介入し、認知症のリスクを未然に防ごうとする「先制医療」が生み出す葛藤を、人類学的フィールドワークから考察した名著である。

世界的に著名な医療人類学者であるロックは、一流の科学者・医師とのインタビューに基づき、アミロイド病因論がメディア啓蒙を通じて流布した21世紀の転換期が、実はアルツハイマー病の発病機制のみならず、その定義に関してですら、科学的合意が崩れていった時期でもあったことを明らかにする。「科学が生まれる場」での老いをめぐる「真理」がどれほど不安定で、不確実性に満ちたものであったのかには驚かされる。そこで浮かび上がってくるのは、トーマス・クーンが『科学革命の構造』で示した科学的反証の難しさ――つまり、ある病因論が「真理」として権力を持ち始めると――それにすでに多くの時間と夢を投資した科学者の誇りや、巨額な資金を提供した製薬企業の利害も複雑に関わってくるため――かなりの反証が積み重なっても中立的議論を行うことが困難であるという事実だ。ただし本書が単なる科学批判と大きく異なるのは、ロック自身がこれら認知症・遺伝子の科学者らと共に、長年医学部で教鞭をとった人類学者であり、最先端の論争点を微細に正確に読み取り、科学者の情熱と葛藤を共感的かつ冷静に分析している点にある。アミロイド説の主要論者から、後にその批判に回った科学者の自省的語りにも見られるように、認知症の科学は時に、なにが自然で健康で、かつ幸せな老いなのかをめぐる、科学者自身の人生観そのものが問われる“闘争の場”となる。

この半世紀近く、日本を軸足に生物医学の比較研究を行ってきたロックは、そのような科学医療に潜む文化的死生観・人間観を明らかにしてきた。『脳死と臓器移植の医療人類学』では、北米では短期間で一般化した脳死・臓器移植が日本で激しく批判された経緯を分析し、脳死概念の国際的再検討の機運を生み出した。『更年期』では、なぜ日本女性は北米の女性達のような率で更年期症状に苦しまないのかを疫学的にも探り、環境・文化・歴史によって身体の生物学的経験も異なる「ローカル・バイオロジー」の可能性を科学者に知らしめた。当時隆盛しつつあったホルモン代替療法の濫用を問うた彼女の研究は、その後この介入法のもつ心臓病へのリスクや、食事・環境の重要性が証明される中で、安易な「老いの医療化」への再考を促す警鐘の書としても広く読まれた。

本書でも、彼女の関心は老いの科学が(その不確実性にもかかわらず)、人々の生活をどう大きく変えてしまい得るのかという点にある。「遺伝子診断」治験での人類学的調査での、現在健康な人々が、認知症になる将来のリスクを告げられた際の、語りの分析から浮かび上がってくる「先制医療」は、まるで炎の中に運命を読み取ろうとした古代の神託にも似た危うさを抱えたものに見える。唯一の救いは、遺伝子診断に対する人々の健康な懐疑主義だろうか。医療・政策・人間観をも含めた「老い」の複雑さを全体としてとらえ、病い・老いとの新たな向き合い方も提示する必読の書である。(坂川雅子訳)
この記事の中でご紹介した本
アルツハイマー病の謎  認知症と老化の絡まり合い/名古屋大学出版会
アルツハイマー病の謎 認知症と老化の絡まり合い
著 者:マーガレット・ロック
出版社:名古屋大学出版会
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