享楽社会論 現代ラカン派の展開 書評|松本 卓也(人文書院)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年4月28日 / 新聞掲載日:2018年5月4日(第3237号)

政治社会的実践としての精神分析のポテンシャル 
現代社会の居心地悪さを生き抜くために

享楽社会論 現代ラカン派の展開
著 者:松本 卓也
出版社:人文書院
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精神分析は政治や社会について何を語ることができるのか?もちろん、フロイトから今日に至るまで精神分析は多くを論じてきた。だが、その実践がいつも革新的でありえたわけではなく、体制順応へと堕する危機を免れえないという事実に鑑みれば、その政治・社会論はどの程度アクチュアルかつクリティカルでありえるか。皮相浅薄と無知蒙昧ゆえの誤解や批判に対して精神分析を擁護することも必要であるが、この問いかけに真摯に答えるにはフロイトやラカンの理論が「現代について何を言いうるのかを示すこと」こそが重要であるという主張を、著者は本書を通してパフォーマティヴに敷衍していく。

第I部ではフロイトの大義派での展開を中心に、「現代ラカン派」における議論の理論的枠組みがきわめて明晰に整理される。続く第Ⅱ部では、DSMの操作的診断基準、うつ病や自閉症、恥の情動といった臨床的トピックが論じられる。第Ⅲ部は、著者が本邦への積極的な紹介者の一人となっているラカン左派の立場から、享楽の病理としてレイシズムを取り上げ、自らの体験を交えながら、そのメカニズムの分析にとどまらず、抵抗の可能性を見出さんとする意欲的な議論がなされる。

タイトルが示すように、本書におけるラカン読解と現状分析の鍵となるのは享楽概念であるが、その理論的変遷―死のイメージをまとった不可能な享楽から制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行―を著者はとりわけ強調する。科学技術と自由市場資本主義の申し子である今日の社会は、禁止されないものが全て義務になるかのごとく、可能な限り享楽することを強いる。その対抗軸として、七〇年代のラカンの症状論を踏まえ、ひとが享楽を十全なものとして生きること、享楽をひとりで位置づけることの不可能性と性関係の不在に代えて、特異的=単独的な〈一者〉の享楽に焦点が当てられる。享楽の用法に注目する精神分析のプラグマティックな転換はなるほど、言語と享楽の関係についての理論更新に加え、大義のための犠牲や喪失への贖いとは別のかたちで各々の生を肯定する気運と呼応している。とはいえ、功利的な有用性と鋭く対立しながらも主体的効果を生み出さずにはおれない不可解さ・無意味さを抱え込んだ享楽概念を、著者が「断絶」とまで呼ぶ、不可能から可能へのドラスティックな転回のもとに一望しうるかについては留保が必要だろう。精神分析は今なお、ときに致死的な破壊や憎悪としてあらわれ我々をとらえる享楽のうまくいかなさ・・・・・・・の証人であり続けているのだから。

社会的紐帯が破壊され、「鉄のマスク」によってパッケージ化された享楽に耽溺し自己完結するかのように生きる人間たちの寄せ集めとされる「享楽社会」。欠如の関数であるセクシュアリティの衰退、眼差しや声といった対象の脱エロス化―その暴力性の忘却―の後に、「人間はいったいどのようなエロスと、どのような未知の享楽とつきあっているのだろうか」という著者の問いかけを前に評者は、精神分析が何よりも愛―資本主義のディスクールが無視する「愛にかかわる物事」―についてのディスクールであることを改めて思い起こした。ラカンも言っていたではないか、あらゆる社会的紐帯から切り離された偶然の出会いから生まれる愛がある、と。

前著『人はみな妄想する』が大きな反響をもたらした気鋭の精神病理・精神分析学徒の手による本書は、「ラカン派の現代的な議論を日本の現代思想の文脈に導入するための工夫」が十分に凝らされており、本邦の思想界におけるラカン派精神分析のプレゼンスを示すことに成功していると言える。著者の評判と明快な筆致によって、本書もまた多くの読み手と出会うだろう。そして、読むことは理解には還元されえないのだから、読み手は自らの享楽とうまくつきあっていくための創発的実践へと連れ出され、ひょっとすると精神分析が新たに立ちあがる土壌がそこにつくられるかもしれない。
この記事の中でご紹介した本
享楽社会論 現代ラカン派の展開/人文書院
享楽社会論 現代ラカン派の展開
著 者:松本 卓也
出版社:人文書院
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