エリー・フォール映画論集 1920‐1937 書評|エリー・フォール(ソリレス書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年4月28日 / 新聞掲載日:2018年5月4日(第3237号)

現在を思考する有用なヒントに 
フォールの映画論は一九二〇年代の知的 コンテクストにしっかりと礎を下ろす

エリー・フォール映画論集 1920‐1937
著 者:エリー・フォール
翻訳者:須藤 健太郎
出版社:ソリレス書店
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フランス第三共和政下で医師・著述家として活躍したエリー・フォールは、おそらく、古代から近代に至る美術史の壮大な流れを熱気のこもったうねるようなエクリチュールでたどった五巻にわたる『美術史』(一九一九―二一年、邦訳は国書刊行会)で最もよく知られている。ゴダールの『気狂いピエロ』(65)の冒頭、浴槽に浸かったジャン=ポール・ベルモンドがベラスケスについての一節を朗読するシーンを介して、二一世紀に入るまで邦訳がなかったこの大著へと誘われた人も多いかもしれない。だが、フォールは、一九二〇年以降、まだ生まれて間もないと言ってもいい映画芸術についても断続的に文章をしたためており、本書は日本語版の独自編集でそれらを集成したものである。

近年の映画研究では、一九二〇年代のフランスで展開された映画論に再び大きな注目が集まっている。映画が芸術であるかどうかはもとより、そもそも「映画」を何と呼ぶかについて議論が百出し、その作り手の呼称として「演出家」や「エクラニスト」や「シネアスト」といった用語が飛び交っていたこの時代は、映画がとりわけハリウッド製の「商品」として規格化される一歩手前の段階にあり、多くの論者がこの新興のメディウムの潜在的な能力に目を向けていた。デジタル化以降のここ数十年の映像環境も、映画のアイデンティティが問い直されているという意味で似た状況にあり、およそ百年前の言説状況は現在を思考するにあたっても有用なヒントをもたらしてくれるだろう。

フォールの映画論は、一九二〇年代の知的コンテクストにしっかりと碇を下ろしている。実際、映画を「第七芸術」と名付け、そこに諸芸術の統合を見て取ったリチョット・カヌードに倣って、フォールも映画と演劇を結びつける通念に抗い、映画を「動く建築」にして、視覚を介して「われわれに触れてくる音楽」であるとみなす。また、ティントレットやゴヤやドラクロワの絵画がすでに映画を予感していたという大胆な断言は、『美術史』の著者ならではのものだろう。さらに、実作も手がけたルイ・デリュックやジャン・エプシュタインが「フォトジェニー」と名付けていた映画的イマージュのあり方を、フォールも、物語の次元を超えたところに現出する「何かを示唆する力」として見出し、一時はそれに「シネプラスティック」の造語を当てていた。

きわめて充実した「訳者後記」が示唆するように、フォールのいう「シネプラスティック」をカトリーヌ・マラブーの「可塑性」の概念と結びつけ、「フォトジェニー」を表象の下に蠢く「形象的なもの」と読み替えるのは生産的な試みであるに違いない。しかし他方で、フォールの言説には、映画の可能性を言祝ぐあまり、その集団的性質についていささか無防備にも思える記述が散見されることも事実だ。たとえば、彼は映画を「比類なき交感(コミュニオン)の道具」とみなし、さらには「ミサの儀式」や「聖史劇」といった情動的スペクタクルにも比している。こうした論点と、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」でいう「芸術の政治化」の要請との距離は、慎重に測らなければならないだろう。

エイゼンシュテインやヴェルトフ、バラージュやアルンハイムが邦訳で手軽に読めるのに対して、一九二〇年代フランスの映画論はこれまでほとんど訳されてこなかった。本書が呼び水となり、この領域の翻訳が進むことを期待したい。
この記事の中でご紹介した本
エリー・フォール映画論集 1920‐1937/ソリレス書店
エリー・フォール映画論集 1920‐1937
著 者:エリー・フォール
翻訳者:須藤 健太郎
出版社:ソリレス書店
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