小林茂氏に聞く 第2部〈小林茂の映像の世界〉聞き手=鈴木一誌|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年5月8日

小林茂氏に聞く 第2部〈小林茂の映像の世界〉聞き手=鈴木一誌

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第4回
場面ではなく空間を

──柳澤作品を引き継ぎながら小林作品でも、時間と変化が鋭く対立している。小林監督の映画を見て、それがはっきりわかりました。柳澤監督の『甘えることは許されない』では、入所者たちそれぞれの変化と、施設が押し付けてくるタイムテーブルとのあいだで、厳しい桎梏があります。どんな施設にも時間の縛りはありますが、かたや変化していく人間の存在があります。その実現が社会から見ればほとんど無意味だとしても、「小さなシーンのなかで、小さい何かが実現されている」。『わたしの季節』について小林監督は、「「福祉制度」や「施設」の問題は、この映画ではあえて主題にしないことにした。今回は彼らの「存在感」がテーマである」(『ぼくたちは』)と書いています。
小林
 福祉の歴史や制度的な問題は、本などで勉強してもらう。『わたしの季節』で、教育的な指導をやめて、たとえば粘土を使って自由に遊んでもらうシーンがあります。すると、粘土を口に入れてみたり、口から出した粘土を接着剤代わりにしたり、こちらが想像できないことが起こります。新聞をひたすら引き裂く人がいて、自分も無心に破いてみると、なんて気持ちいいんだろうと。破る方向がタテとヨコで、破ったときの新聞の音が違うといった発見もあります。

──紙のタテ目とヨコ目の問題ですね。
小林
 重い障害をもつ人たちの感性はどうなのか、そう観客の想像力をかきたてるようなシーンになっているか。少しでも転換した視点が伝わればいい。映像的な衝撃には頼りたくない。ただ、内面に生じる衝撃という点で、見た人がどう感じてくれるかに期待しています。私たちが被写体に対して感じたままを見せる。しかし、それがじつに難しい。対象に深入りしてもいけないし、遠くからちょっかい出しているようではまったく駄目です。踏み込むときは、ぐっと踏み込む。びわこ学園で四〇年間暮らしている志郎さんを撮るときも、まず志郎さんの父親に談判した。父親は親の会の会長でもあった。さらに撮影した画を見せて、念押しする。あらかじめ見てもらうと、「あなたに任せたんだから」という気持ちになる。

──志郎さんは、より自立的な生活を求めて、ほかの施設に移りたがっている。「そんなの無理だ」と考える父親とのあいだで揉めている。その父親が、実家の玄関先で湖面を望みながら、「どうしているかな」と息子を思いやりながら見ます。すごくいいシーンですね。
小林
 「もう子でも親でもない」と父親は言いながらも、志郎さんを心配している。80歳と50歳の微妙な親子関係がある。映画は親子の確執を追わず、どちらが正しいかを描かない。

──40年のあいだ、実家を離れてひとつの施設で暮らす重さが伝わり、ほかの入所者の身の上にも想像は伸びていきます。
小林
 見る人には、矛盾や対立をそのまま受け取ってほしい。舞台は柳澤監督の『夜明け前の子どもたち』といっしょのびわこ学園ですが、『夜明け前の子どもたち』のほうは、初期の時代のびわこ学園を描き、子どもたちの共同作業をとおして、彼らの「発達や療育」を問うたのに対して、『わたしの季節』では、四〇年を学園で生きてきた彼らの人生も老齢にさしかかっています。私の闘病の経験も重なり、彼らの「存在感」に敬意をもってキャメラを回しました。『わたしの季節』は、映画がなるべく彼らの世界に介入せずに、淡々とした「日常」を描いたつもりです。  

──『夜明け前の子どもたち』と『わたしの季節』のあいだには30年以上の年月が横たわっています。施設も古び、植物が繁茂し、増改築などの変化が見えます。トップシーンでは、新築を祝う会の紅白の幕が切り落とされる。終盤、旧施設が取り壊され、ラストシーンは、新しい施設にみんなで引っ越しくる。まさに切断面の記録です。
小林
 「施設」というものから、カメラの前を通って自分たちのほうに出てきて欲しかった。また彼らを受け入れられる社会であって欲しいとも思いました。古い建物と新しい建物へ時間的に移行していくのではなく、障害者を受け入れるように社会が変化していってほしい、最後のシーンは、柳澤さんから受け継いだ思いを込めて作っています。

──小林監督の映画は、写真的でもあると思います。シーンの積み重ねと同時に、ショットの積み重ねを感じます。
小林
 たしかに、写真を撮るように映画を撮っている自分はいます。とくにキャメラを担当しているときはそうです。昔の監督さんは、映画のことを「シャシン」という言い方をよくしていました。写真の連続が映画になるということでしょう。キャメラが回り込むとき、自分では、スチールカメラでシャッターを切りながら、画角を替えて撮っている感覚なんです。映画も写真も、まったくいっしょですが、違うのは、長さが写真にはない。キャメラのスイッチを入れて持続させる時間のなんとも言えない恍惚感、昂揚した時間は、映画独特のものです。

──「瞬間」は映画じゃないと映らない。
小林
 写真は止まっている。しかし見る人間は、心の中で画を動かしている気がします。映画はスクリーンで動いています。ただ、ある映画を思い浮かべると、逆にスチールのように、止まった一場面として思い浮かべている。

──ロベール・ブレッソンに習って言えば、「映画が瞬間を発明した」。
小林
 映画には特異な瞬間が訪れる。ドキュメンタリーがフィクションに入っていった瞬間、どきどきするようなドキュメンタリーになる。逆にフィクションでは、役者もスタッフを含めて人間の存在が写り込む瞬間、フィクションという舞台で、ドキュメンタリーを見ている。

──小林さんは、江口さんから依頼されて、第二びわこ学園のなかの歩ける人たちの「びわこ周歩」の写真を撮ります。これが小林さんの二冊目の写真集『ぱんぱかぱん』(径書房、1985年)になる。このあとがきで、不思議な言い方をしています。「ここでいう「空間」とは決して「場面」ではありません」。
小林
 単なる報告・記録集にしたくなかったんです。「場面」と言うとダイレクトなんですが、「空間」は、自分をも含んだものです。そして自分の後ろには、何千人もの観客がいる。最初の観客が自分だという位置づけです。

──共にある感覚ですね。アメリカのドキュメンタリー監督であるフレデリック・ワイズマンが、「コンパッション」という言い方をしています。共に痛みを分け合うという意味で「共苦」と訳したりしますが、ワイズマンが「コンパッション」という言葉に託そうとしているのは、ある日ある時間、被写体と撮影クルーが同じ場所にいた、その事実の重みだと思います。あなたはキャメラとともに居た、それを映画は撮る。ともにあったという感覚が撮れるか、それがワイズマンにとって重要なのだと思います。
小林
 被写体を素材として切り取るのではなく、被写体と直接向かい合う。現実には、生身の人間が生身の人間にダイレクトに向かい合うのは厳しいし、苦しい。そこに、撮る人間が介在して映像化すると、人びとは安定した地点からその場面を見られる。

──そこには機械的な目であるレンズが挟まっている。撮る人間も、レンズがなければ耐えられないときがありますね。
小林
 場面そのものに、いきなりは入っていけない。いろいろ知ったり考えたりしながら、スタッフと被写体との関係をつくっていき、ようやくレンズが介入できる。

──撮るから見られるまでを空間として捉えるのですね。そして、撮る意味が人間関係として伝わって、はじめてカメラが回る。
小林
 楽しんだり悲しんだりできる共有できる空間ができたとき、映画を撮ることができるし、「瞬間」を待てるのだと思います。

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この記事の中でご紹介した本
そっちやない、こっちや ――映画監督・柳澤壽男の世界/新宿書房
そっちやない、こっちや ――映画監督・柳澤壽男の世界
著 者:岡田 秀則、浦辻 宏昌
出版社:新宿書房
以下のオンライン書店でご購入できます
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