島薗進・香川知晶・小松美彦鼎談 人文知は科学技術の暴走を止められるか 『〈いのち〉はいかに語りうるか?』刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年5月11日 / 新聞掲載日:2018年5月11日(第3238号)

島薗進・香川知晶・小松美彦鼎談
人文知は科学技術の暴走を止められるか
『〈いのち〉はいかに語りうるか?』刊行を機に

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香川知晶・斎藤光・小松美彦・島薗進・安藤泰至・轟孝夫・大庭健・山極壽一著『〈いのち〉はいかに語りうるか?』が学術会議叢書の24巻目として刊行された。
「生命科学の急速な発展によって〈いのち〉に対する考え方や取り扱い方を変えねばならなくなりそうな現代、人文知の立場からその課題について語りつくした討論のまとめ」となる書であると、山極氏は「発刊に寄せて」で述べている。
刊行を機に、島薗・香川・小松の三氏に鼎談をしてもらった。

(編集部)
第1回
発刊までの経緯と趣旨

小松 美彦氏
小松 
 私たちは、『〈いのち〉はいかに語りうるか?―生命科学・生命倫理における人文知の意義』という共著を上梓しました。それは、山極壽一・日本学術会議会長の刊行の辞(生命操作に対する慎重論)と、香川さんによる本書の主旨説明および全体概要を巻頭に据え、次のような四種に分かれる七本の論文からなっています。

第一は、科学による〈いのち〉の把握の仕方の検討を基礎とする二本です。すなわち、現在のミクロ生物学の枢軸をなす遺伝子と細胞の概念を歴史的に検討し、それらが一般常識とは異なり揺動していることを明らかにしたうえで、両概念の社会的な受容のされ方を批判的に考察した斎藤論文。またひとつは、古代ギリシアから現代までの科学的生命観の展開史を新たな視点から再構成し、科学的生命観の根本問題を考え、人文知からの生命観を『あしたのジョー』などの分析を通して対置した小論です。

第二は、こうした議論を受けて、いのちの始まりと終わりの生命倫理問題を論じた島薗論文と安藤論文です。島薗論文では、学術会議が二〇一七年に公表したゲノム編集に関する提言がまず徹底批判され、いのちの道具化・資源化・技術化が人間自身にもたらす影響が考察され、さらに「恵み・授かりもの」としてのいのちという観点から独自のいのち論が展開され、それらをもとに、過剰なゲノム編集に歯止めをかける方途と、科学者の社会的責任が提起されます。つづく安藤論文では、医療技術や生命科学技術を全体的に推進する「生命操作システム」を主題化します。そしてそこで作動している言葉のポリティクスを脳死・臓器移植などの事例をもとに考察しつつ、生命倫理も生それ自体もシステムに巻き込まれている実状を描きだし、それに抗する途として「いのちをいのちとして生きる」ことを唱道します。

第三は、少々趣を変えた、いのちと科学技術に関する二つの議論です。このうち轟論文では、ハイデガーの技術論、つまり「ゲ・シュテル」(総かり立て体制)という近代技術の核心と、「ものへの放下」(存在者を固有の在り方に委ねること)という近代技術批判の姿勢を説きおこし、後者の概念を礎に人文知の意義と生命倫理の進むべき方向性を提唱します。他方の大庭論文では、生命操作のうちエンハンスメント(科学技術による人間の諸能力の増進)の是認・推進を支える「ニーズを満たす」という常套句に注目し、その根底には、いのちは私の私有物であり、人生とは私のいのちの設計・用益であるとする新自由主義的な生命観が控えていることを抉り出します。そして、「私」は実はいのちに依存しているのであり、しかも、いのちは意のままにならないという厳然たるいのちの所与性を突きつけます。

第四は香川論文。そこでは、近年に新たな段階を迎えた生命倫理の現状とその倫理性が特に米国について詳説され、日本にあっては「科学技術基本法」の既定路線のもとに、科学技術体制という「複雑な機械」(=資本主義)の中に生命倫理も取り込まれている構造的問題の検討を呼びかけて結ばれています。

概要は以上となります。まずは実質的な編者を務めた香川さんに、発刊までの経緯と趣旨、そこに込めた思いをお話しいただければと思います。
香川 
 本書の元になったのは、二〇一六年十一月二六日に開かれた同名の公開シンポジウムです(主催:日本学術会議哲学委員会「いのちと心を考える分科会」/共催:日本生命倫理学会基礎理論部会)。私がそれぞれの会の委員長、世話人をやっていたこともあり、会のメンバーと意見交換しつつ、人文知の観点から、生命倫理的な問題と生命科学の展開をめぐる問題とを合わせて考えるシンポジウムを開くことになりました。この時の発言を大幅に加筆してもらった論文六本に、私が書き下ろした「付論」が収録されています。シンポジウムを企画した背景については、次のことが挙げられます。人文学の研究者のあいだで特に近年広がって来ていた、生命倫理や生命科学が直面する問題に対する危機感、これがひとつ。また、二〇一五年に問題になった文科省による「六・八通知」も背景としてあります。ごく簡単に言うと、「文系の学問はいらない」というお達しが三年前に出された。そのことは哲学委員会でも大きな危機感を持って受けとめられ、「哲学なしで生きられるか」という公開シンポジウムも、二〇一五年の年末に開催されました。広く日本における人文学をめぐる状況も、今回の本の背景にあると思います。少し具体的な話をすると、なぜ生命科学の展開の問題も含めて考えたいと思ったのか。生命科学の発達とともに、それで生命のすべてが語り尽くせるという考え方が非常に強くなっている。このことは自然科学の「独裁」と言うかどうは別として、やはり大きな問題ではある。そういう思いもあって、ふたつの問題を合せて議論したいと考えたわけです。
小松 
 島薗さんは現在、日本学術会議の連携会員を務めていらっしゃいます。香川さんの言葉を受けて、お話しいただけますか。
島薗 
 私は日本学術会議哲学委員会の会員を、二〇〇八年から一四年まで務めていました。その間、ますます現代の科学技術主導の世界、あるいは経済的効率性に依存した社会の危うさが露わになり、哲学・人文学の出番が増えていると感じていました。また、それに対して、人文学・哲学分野が有効な発言ができないことを非常に心苦しく思っておりました。なんとか科学技術の新たな展開に向き合えるメンバーを強化したいということで二〇一四年に補強しました。二〇一一年には東日本大震災と原発問題も起こりました。あの時も、自然科学系の学問が原発推進を自明視していることが問題にされましたね。そうした考えに基づき、たとえば健康被害はない、原発は安全だという言説を、社会に発信し続ける研究者が後を絶たなかった。そのような状況に対抗する形で、人文社会系の学問は、学術的な良心に基づく発言を迫られた。加えて、今言われたように、六・八通知があったり、軍事研究に学術界を巻き込む動きも急速に進展していった。この大きな流れに向き合うことを、日本の学術界全体が余儀なくされたということです。そういう中で、哲学・人文学が発言できる大きな領域として、生命科学の問題があると思っておりました。今回、香川さんのイニシアティブでシンポジウムが開かれ、こうした叢書にまとまったことを嬉しく思っています。
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この記事の中でご紹介した本
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義/日本学術協力財団
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義
著 者:香川 知晶、小松 美彦、島薗 進
出版社:日本学術協力財団
以下のオンライン書店でご購入できます
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