心身の不調和に悶える年少者たち  身体的な違和の感覚をテーマに読み繋ぐ|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年5月15日 / 新聞掲載日:2018年5月11日(第3238号)

心身の不調和に悶える年少者たち 
身体的な違和の感覚をテーマに読み繋ぐ

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春が苦手だと知った。まともに小説が読めない。花粉症は去ったが、咳が止まらない。新学期の繁忙によるバイオリズムの乱調、どろんとした春の気怠い空気、寝過ぎて気持ち悪くてもまだ昼寝する。もしかしたら毎年、この時期は知らず読書を放棄していたのかもしれず。苛々して字面が意味に変換されない。どの作品も何かが決定的に足りなく思えて仕方ない。考えてみれば、読むことの身体的条件ほど、文学批評が意識的に避けてきた項目はないのだが、そんなことは考えるだけ無駄なのだろう。ともかくも、今回は身体的な違和の感覚をテーマに読み繋いでお茶を濁すことにした。そう考えると、心身の不調和に悶える年少者の話が妙に多かった気がする。やはり春だからか。

町屋良平「しき」(文藝)は、生長する十六歳児の「からだ」の律動が、社会的・言語的な常識や振る舞いに〈疎外〉されていることのもどかしさを丁寧に描く。高校生のモラトリアムな身体を通して、〈疎外〉されない生命活動、あるいは欲望、あるいは運動を掬い出すための、新しい「ことば」の分節作用を探り求めているような小説。そのため、十六歳の感覚に寄り添うよう、漢字の複合語をできるだけ避ける謹厳さを逆に課した文体となっている。しかし、「かれ」自身が、安易な生の「言語化」が固定観念化に結びつく危うさを理論的に自覚しているような書き方になっていて、高校生ってそこまで聡かったろうかとも思う。話は、「かれ」が自主的にダンスを練習し始める春に始まって、学校の中心的コミュニティにはなじめない男女六人の緩い関係のやり取りで進み、友人の一人と一緒に踊った動画を完成させる翌年の春に終わる。「しき」という永遠の季節の巡りと、十六歳の一度きりの身体感覚の変容、そして、それらを調停する言葉の葛藤。「四季折り折りの美に、自分が触れ目覚める時[…]親しい友[人間]が切に思はれ、このよろこびを共にしたいと願ふ」(川端康成)という日本古来の文学的精神を現代風に大胆に再解釈した試みと強引に評価できるかもしれない。しかし、全体に退屈は免れない。否、その長さに苛々した。ホームレス生活をしている「河原の友だち」なる道化の如き変な存在がなければ途中で投げ出したかもしれない。「かれ」ら高校生の淀みの時間、未整形の感覚や日常性の屈託なんて、どうでもいいのだ。だが、そのような気持ちが、まさに「かれ」らの生命活動のもどかしさや苛立ちを共有させられた結果の形なのだとすれば、作者の勝ちということか。

水原涼「少年たち」(文藝)も思春期の少年を描く。鳥取県の小さな町を舞台として、山側の中学の不良グループに属する二年生の「僕」の行き場の見えない鬱滞した生活が、海側の中学の不良グループとの抗争を中心に生彩に描かれる。作者は、美学化しない剥き出しの―時に後味の悪い描き方になる―暴力に執着があるようで、本作にも容赦のない暴力場面は描かれるが、それは最近転入してきた新参者(バシ)が持ち込んだ種類の暴力であり、かえって土地固有ゲニウス・ロキの力によって神遊かみあそびのように踊らされて見える不良少年たちの喧嘩の儀式性を浮かび上がらせている。ふと樋口一葉「たけくらべ」を思い起こした。もちろん物語構造は重ならない部分も多い。が、本作の山側と海側を分けた不良の抗争は、親の代もその親の代もしてきた伝統であることを考えると、そこには民俗的、あるいは自前の〈血の物語〉による神話的な循環の時間が流れている。一方で知らず「僕」たちは、衰退していく土地の、幸福でもあり呪縛でもある永遠の「子供たちの時間」からの脱却を模索してもいる。中学一年生の頃、用具入れのマットの上でした「墜落ごっこ」なる遊びを繰り返し想起する「僕」にとって、後ろ向きに落下する一瞬の自由の身体感覚だけが、場に留まり続ける不良たちの時間にも、今後向かうべき社会人の時間にも回収されない、唯一信じるに値するリアルなのだ。

高橋弘希「送り火」(文學界)も、地方の廃校寸前の小さな世界におけるスクールカーストを描いており(豆知識をいうと、谷崎潤一郎「小さな王国」が近代文学では類似テーマの先駆的な作品である)、いじめを受ける者の極端な暴力の解放によって終幕しているが、正直、不快を催すそのレベルまで描く必要があるのかは疑問である。暴力にも多種あるが、抑圧する側の暴力ではなく、生権力的な閉塞性の力の連鎖に抵抗する・・・・暴力の表出を、未成年の身体感覚を通して描く手法と肯定的に理解しておきたい。テロを直に主題とした陣野俊史「泥海」(文藝)も、同じ観点から考察の対象となるだろう。かつて文芸評論家の秋山駿が犯罪の主題を探求していたのと同様、革命性の暴力論に魅せられているのだろうか。現代社会を批評する際に避けて通れない主題なのは確かだが、第三章の「オレ」の日本パートは、現代日本も世界内戦下にあるという当事者性を担保する手段であるにしても、構成としての強引さは否めない。いずれにしても文学と現代的暴力という大問題の考察は手にあまる。別の機会を期したい。

なお水原涼は「干潮」(すばる)も同時発表している。祖母の葬式に臨んで、祖父の臨終の記憶も併せて紡ぎながら、「死」という出来事の物質性に向き合う。いかにも感傷性が絡みつきそうな素材を選びながら、それを容赦のない自然主義に還元していくような作者の描写の手つきには、どこか独特のセンスがある。唯物的ロマンティシズムとでもいうような。死んだ祖母の額に口づけする最後の場面を見て欲しい。

村田沙耶香「地球星人」(新潮)は、現実逃避のために解離性の別人格を肥大させて、そちらの逃避世界を生きようとする「異常者」たちを描く。これも社会と身体の違和の主題に繋がってはいるが、肉体レベルの葛藤を注視するようなリアリズムはなく、ほとんどSF的寓話の描写に寄っている。大人の常識世界「人間工場」への抵抗を誓い合った、自分を魔法少女と信じる小学五年生の「私」と宇宙人と信じるいとこ・・・の由宇は、三〇歳過ぎで再会、偽装結婚をした夫を加えて、改めてポハピピンポボピア星人として「工場」からの脱却を実践していく。村田作品一般の話だが、キャラの性格が徐々に修正・加算される印象を覚えるのは私だけだろうか。見切り発車的な粗いキャラ設定の印象である。しかし逆にいうなら、彼らのように自作の虚構の中で生きのびていく人間の「性格」が、必然的に大きな揺らぎをもつことを表す語りの技巧と考えるべきだろう。作者の描く人物は、常に物語構築の進行形の緊張のなかで生きているのだ。ただそれにしても、彼らの思考はあまりに稚拙で付いていけない。結果、硬質な言葉で攻めてくる三島由紀夫『美しい星』の二番煎じにはならずに済んでいるものの、後半の場面は少々悪趣味。本作の出来は『コンビニ人間』には及ばないだろう。単にやりすぎなのではない。コンビニ人間はむしろ仕事の有能さにおいて現代社会に過度に適合してしまう可能性を示しているからこそ、その超常識性に意味があるのであって、最終的にコミューンに「異常者」を囲い込む格好の物語構成では、批評効果は半減なのである。

松井周「リーダー」(文藝)も生の感覚のずれの問題に関わる小説である。ゲーム脚本家チームのリーダーとしての仕事の役割も、一家の「父」としての役割も、共にうまく果たせない中年男の難儀が描かれる話、と要約するとたいした小説に思えない。実際、状況設定が整えられるまでの前半部はノリも悪く微妙である。しかし、チームから逃げた仁科、級友を殴った息子タカシ、夫あるいは父としての無能さを咎める妻、それぞれとの対話場面が長ずるにつれ、俄然興を帯びてくる。即興劇の成果を切り出しているようなノリなのである。実は、作者の簡略な演劇ワークショップを以前直に拝見したことがあって、内容は全く覚えてないのだが、台詞のみのエチュードを参加者に課して、対話の偶発的展開の面白みを取り出して見せていた(ような気がする)。物語の終局、生活の「役割」に対する哲学的な思いを巡らしている主人公の姿が描かれるが、現実世界の演劇性を浮かび上がらせようとする本作の創作態度それ自体への、自己言及的な意味合いをそこに読みたくなる。

木下古栗の新連載の「平衡世界」(文藝)は、日々の素朴な経済活動からこぼれ落ちた金銭―サンクコスト、あるいは僥倖としての残余―を喜劇的に取り出してみせる。生の離散量化の失敗、あるいは数え間違い・・・・・こそ文学の本質である、というようなことは小林秀雄だったか、他にも偉い人が言っていたような。それはたぶん、巧みに構築した笑いに包んでしか明瞭には取り出せないもの。だが題の「平衡世界」の真意は何か、次回に何が描かれるのか、春号の別連載はそのまま残余となったのか、色々とわからない。ゆえに秋号の一手が楽しみである。
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