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更新日:2018年5月18日 / 新聞掲載日:2018年5月18日(第3239号)

追悼・植田 康夫 いつか、戦後出版史を語り合えたらと 立花 隆

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植田 康夫
僕の手元に「週刊読書人」の前身「全国出版新聞」と「読書タイムズ」のバックナンバーを製本した巨大な冊子があります。同紙の編集印刷発行人を務めた橘経雄(たちばな・つねお)、つまり僕の父の形見ですが、植田さんとは、いつか一緒にこれをめくりながら戦後メディア史・出版史を語り合えたらと何年も前に話していました。しかしその機会は永遠に失われました。

今、自分でバックナンバーをめくると、「この文学全集はおやじの書棚にあったな」とか「読書タイムズの立ち上げの頃、おやじは大変そうだったな」といった記憶がさまざま呼び覚まされます。しかし、戦後の出版業界の事情についてわからないこともある。諸々の細かな点について、植田さんしか知りえないことがたくさんあったはずです。

僕と植田さんが直接顔を合わせる機会はそれほど多かったわけではありません。しかし、僕はいつも植田さんの近くにいた気がします。

たとえば、一九七四年頃だと思いますが、僕は植田さんと同じ光が丘の団地に入居していました。中庭を挟んで同じ階の向かいにお互いの部屋がありました。

当時、僕は結婚したばかり。相手は、元読書人の編集者です。僕が一九七一年に文筆業を中断して、新宿ゴールデン街でバー「ガルガンチュア」を経営していた頃、客として来店したのが彼女です。ガルガンチュアは出版マスコミ人のたまり場でした。あるとき常連客の一人で、講談社の編集者から「イスラエル政府から自分に招請状が届いているが、訳あって(「週刊現代」の編集長に突然の指名を受けて)自分は行くことができない。お前が代わりに動けないか?」と言われ、僕は即座に「行きます」と答えた。こうして僕はガルガンチュアを開いて半年で経営権を人に譲り、一九七二年、イスラエルへと旅立ちます。

イスラエル政府が用意したのはIATA(国際航空運送協会)加盟全航空会社の共通チケットでした。これは最終目的地(日本)に向かう限り、どんな航空路線にも転換可能な万能チケットで、一年間有効でした。日本へ急行することもできれば、何便も何十便も乗り継ぐことができる宝石のようなチケットです。僕はせっかくの機会なのでこのチケットをフルに利用して、ヨーロッパと中近東各地を寸刻みで移動してまわりました。

イラクで手持ちの金が尽きかけた頃です。日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起きました。さらに事件後、犯人グループの中で唯一自決に失敗した岡本公三に対する裁判がイスラエルではじまることになったのです。僕は「週刊現代」の編集者に電話して、「金を送ってくれたら、イスラエルに戻って裁判のレポートを書きますよ」と持ちかけました。するとすぐにOKが出て、僕はイスラエルに舞い戻り、取材をはじめました。

今思い返すと、この時の取材が、僕の人生の転機になっています。日本に帰ってこの旅をベースに「パレスチナ報告」という長文のルポを「諸君!」に書き、それが本格ルポライターの出発点になり、「諸君!」の編集長の田中健五さんと縁が深くなった。

帰国後、僕は元読書人編集者の妻(植田さんの部下だった人)と結婚し、たまたま植田さんと同じ団地に入居します。しかし植田さんとの近所付き合いはあまりありませんでした。「文藝春秋」に「田中角栄研究」を発表し、「現代」に「中核VS革マル」の連載を始めたのが一九七四年です。猛烈に忙しく、文春と講談社を行き来する日々で、ほとんど家に帰らず、もっぱら文春の簡易ベッドで寝ていたからです。そんな有様なので当然ですが、まもなく離婚して、僕は団地を離れました。

植田さんが上智大学の教授を務めていたころも、上智と文春は近所なので、近くの日常利用する店も共通でよく顔を合わせていました。出版界のことを知りたいときはよく電話をかけて情報を得ていました。だから僕にとって人間関係でも情報面でもつながりあっていた植田さんを思い出すことは、自分の人生を思い出すことと同じなのです。(談)(たちばな・たかし=ジャーナリスト)構成=緑慎也
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