多和田葉子氏インタビュー 沼のなかから咲く蓮の花のように 『地球にちりばめられて』(講談社)刊行を機に〔書評=郷原佳以〕|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2018年5月18日 / 新聞掲載日:2018年5月18日(第3239号)

多和田葉子氏インタビュー
沼のなかから咲く蓮の花のように
『地球にちりばめられて』(講談社)刊行を機に〔書評=郷原佳以〕

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第5回
【書評】どんな母語でもない言語(評者:郷原 佳以)

まずタイトルに惹きつけられる。「地球にちりばめられて」と「て」で終わるタイトルは、著者の初期作品『かかとを失くして』を思い出させるが、他にも、たとえば、須賀敦子の『本に読まれて』を想起させる。いずれも、通常の表現をねじったり、普段はあまり結び付けられない二つの言葉を結び付けたりして作った、どこかおどけた表現という印象を与えるからだ。では、「本に読まれ」たり「地球にちりばめられ」たりしているのは誰だろう。そのように言っている「私」もしくは「私たち」であるだろう。その上で、「地球にちりばめられて」というタイトルが魅力的なのは、「ちりばめられ」ている以上、「私」はきらきら光る小さな宝石の一つのかけらであると同時に、反射し合ってきらめき輝く複数のかけらでもあって――いずれにしても「かけら」であって、「全体」ではない――、「私」は同時に「私たち」でもあるということが示唆されるからである。

『地球にちりばめられて』は、そのような「私たち」である五人の若者たちによって交互に語られる旅の物語である。その旅は、言語のための、言語をめぐる探求の旅である。それだけははっきりしているが、しかし、言語をめぐる探求というのが正確には何の探求なのかということは、当人たちにも最初から明瞭に意識できているわけではない。一見徒労にも見えるような旅を、巻き込まれるようにして続けているうちに、何が求められていたのかが、彼らにも私たち読者にも、一条の光が差すように見えてくるのである。それが何であるかについては、後述することにしよう。

語り手は章ごとに替わるのだが、語り手にして探求者たちの名は、クヌート、Hiruko、アカッシュ、ノラ、ナヌークといい、ナヌークは始めはTenzoという名で他の四人、また私たちの前に現れる。大学で言語学を専攻しているクヌートと、彼が惹かれる女の子、生まれ育った国が消えてしまってから全スカンジナビアで通じる「パンスカ」という言語を自分で考え出して使っているHirukoは、もっとも多く語りを担っており、三回ずつ語り手になる。なお、語りのほとんどは本当は日本語であるはずはないので、読者は終始、語りや会話、とりわけHirukoのパンスカを想像しながら読むことになり、紛れもない日本語の作品でありながら、翻訳書を読んでいるような気分にもなる。さて、Hirukoは母語を話す者に会えるかもしれないという期待から、ある催しへと足を伸ばすことにし、彼女に会って「なくなってしまった国の言語を研究したい」と思うようになったクヌートがその旅に加わる。その途中で、二人の言語への関心の持ち方に惹かれたインド出身の女装した元青年、アカッシュと出会う。目的の鮨職人、Tenzo(典座)にはそこでは会えないのだが、その恋人、ノラに偶然出会う。みなが抱える思いは少しずつ異なるが、Hirukoの探求に惹かれる気持ちは同じで、二人が新たに加わって、Tenzoを探しに行くことになる。ここまでの筋からおそらくわかるように、滅亡した国にしてHirukoとTenzoの祖国として暗示されているのは、日本である。しかし、「日本」という語は本書のどこにも登場しない。ノラの語りのパートで、水たまりに落ちる大きな滴の音が、二度ほど「ジャパン」と響くだけである。日本らしき国は、どうやらHirukoが北欧に留学に来た後に消えてしまい、彼女はその後、同郷人に会えないでいるらしい。そこで三人が加わってTenzoが探されるのだが、しかしTenzoは実は彼女の同郷人ではなく、エスキモーのナヌークの「第二のアイデンティティ」にすぎないことがわかる。そのことが判明したときにHirukoが見せる反応が、この物語の第一の読みどころである。ともあれ、彼らの結束はこの一件で崩れることはなく、五人は今度は噂を辿ってSusanooと呼ばれる人物のもとへ旅立つ。彼は五人の祖父世代にあたるような人物なのだが、彼こそはHirukoの同郷人であるかもしれない……。物語はこのように一種のミステリー要素も孕んだ冒険譚になっており、交互の語りによって最終章に向けて期待が高まってゆく。

語りと旅の舞台は北欧を中心としたヨーロッパで、登場順に挙げれば、コペンハーゲン、オーデンセ(デンマーク)、グリーンランド、トリアー(ドイツ)、オスロー(ノルウェー)、そしてアルル(フランス)である。アルルでは、それまで一堂に会することのなかった五人がSusanooのところにばらばらにやって来て、さらにクヌートの母親まで加わって大団円となるのだが、しかし、それで旅が終わるのではなく、その後五人はSusanooと共にストックホルムへ発つのだろうということが暗示される。実はSusanooも物語の語りの一翼を担っているのだが、五人に探求される者という立場にいて、アルルで彼らは出会うわけである。五人は六人となって、彼らの旅は終わらず、語りも終わることはない、そのように感じられる、希望に満ちた終わり方である。六人の語りを追っている間は、読者はすっかりその聞き手となっているのだが、いったん物語が終わって本を閉じてみると、本書全体が巧みに構成されていたことに気づいて、作者の技量に感嘆させられるだろう。
六人の語り手はそれぞれの語り方あるいは文体をもっており、来歴が異なるから当然とはいえ、使う比喩や連想も異なっている。それらはいわゆる「多和田葉子」の文体でもない。そうでありながら、彼らの言語、そして探求にはある共通の方向性ないし嗜好のようなものがあり、そのために彼らは自然と惹かれ合っている。それは一言で言えば、彼らの言葉への繊細さである。その繊細さが、彼らを羨ましいほど身軽で自由で開放的にしているのだが、逆に彼らに、ある種の権威的な人々や欺瞞に対する強い警戒心を抱かせてもいる。一方では彼らは、他の人々よりもはるかに言語能力が高く、数ヶ国語を自由に駆使してコミュニケーションができるのだが、他方では彼らは、いわば「体質」として、言語をただの道具にしておくことができない。彼らにとって、モノとしての言葉の存在感は他の人々からすれば過剰なほどで、そのために彼らは知らず知らずのうちに苦しんだり、世間一般からすればマイノリティーの側にいたりする。しかし、その繊細さと警戒心こそが、彼らを「地球にちりばめられ」た者、そしてHirukoとSusanooに関しては、滅びた国から生き残った者としての「地球人」にしている。彼らに関してだけは「地球人」という言葉が大仰でない、そのように思えるくらいの強い感受性と生存力が、彼らにはある。

彼らの感受性と生存力、それを別の仕方で言い換えるなら、彼らは未来の若者だということである。Susanooは五人から見ればおじいさんのような年齢なのだから、「若者」というのはおかしいかもしれないが、「歳を取らなくなった」と彼自身言っているし、その身軽さと繊細さは彼を永遠の若者にしている。そして「未来の」というのは、物語の舞台が現実の現在より後の時代に設定されている――おそらくそうなのだろうが、物語の時間は現実の現在を基準にする必要はないのだから、単に「別の現在」であるのかもしれない――ということではなく、むしろ、グローバル化が急速に進む一方で、「母国」や国境、内部性への執着と外部性の排除の傾向が顕著に見られる現実の私たちの現在にこそ、来たるべき人物たちだということである。どういうことか。

先述の通り、彼らの探求の真の目的は彼ら自身が旅によって見つけ出してゆくのだが、それは結局のところ、Hirukoが新しい言語を作り出した目的と同じである。Hirukoも彼女の仲間たちも、失われた彼女の母語こそが旅の目的だと途中まで信じているのだが、そうではなかったことにあるところで気づく。彼女はナヌークが典座ではなかったという一件を経て、「むしろ、ネイティブ・スピーカーという考え方が幼稚だった」と思う。「むしろ母語なんてどうでもよくなってきて、ナヌークという一人の独特の発音生物の存在が、わたしという独特の発音生物と出遭ったという事実の方がずっと重要なのだ」と思い至る。ではいったい、「パンスカ」とは何か。必要に応じて既存の言語の折衷などから作り出された「新しい言語」といえば、私たちは、ピジン、クレオール、エスペラント、グロービッシュ、コンピューター言語などを連想する(それぞれ異なったものだが)。しかし、Hirukoは、たとえば「「ピジン」は「ビジネス」と結びついているので、わたしの場合は当てはまらない」と言う。パンスカが何であるかについては、最終章でクヌートが言い当てている。彼は、Hirukoの「強さ」の源はパンスカにあると見抜くのだ。それは、異質であり続けること、「母語」にならないことである。「パンスカは僕らにもはっきり理解できる言語ではあるが、あくまで異質さを保っている。Hirukoを北欧社会に溶け込ませて目立たなくしてしまう言語ではない。しかもどんな母語とも直接はつながっていない」。どんな母語とも直接はつながっていない言語、翻訳そのものであるような言葉こそ、真の意味での越境者を作り出す。そのことを私たちは、Hirukoと彼らの「強さ」から学ぶ。そして、そのように示唆する多和田葉子の言葉そのものが、いかなる「母語」にも収まってしまわない、翻訳言語となっている。(ごうはら・かい=東京大学准教授・フランス文学)
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この記事の中でご紹介した本
地球にちりばめられて/講談社
地球にちりばめられて
著 者:多和田 葉子
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
献灯使/講談社
献灯使
著 者:多和田 葉子
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
雪の練習生/新潮社
雪の練習生
著 者:多和田 葉子
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
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