湖畔の愛 書評|町田 康(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2018年5月19日 / 新聞掲載日:2018年5月18日(第3239号)

言葉はいかに水際を攻められるか

湖畔の愛
著 者:町田 康
出版社:新潮社
このエントリーをはてなブックマークに追加
湖畔の愛(町田 康)新潮社
湖畔の愛
町田 康
新潮社
  • オンライン書店で買う
読めば読むほど、エンドレスにリピートして読み返したくなる中毒性を感じる。一見、湖畔の古びたホテルを舞台にした、天変地異と奇人変人が入れ替わり立ち替わり登場する笑劇である。レトリックも巧みなテキストに引き込まれながら大いに笑えばいい。しかし、笑ってすっきりして終わりではない、不穏な余韻が迫ってくるのだ。寄せては返す波のように。

まず湖畔という立地が食わせ物である。湖のそば、つまり水の支配を受けやすい場にこの小説は位置している。そしてテキストにおける水の役割を、あらゆる形で実践し実験しているのだ。

境界線はじわじわと侵されていく。九界湖という仏教用語を冠した名の湖のほとりに神社がいくつもあって龍神が住む。神仏習合しつつ、パワースポットというトレンドなども取り入れつつ、信仰という土地と人々の心を支配する地盤を曖昧にする。

湖から霧が立ち込め、視界を塞ぎ、一日の始まりを曖昧にする。さらにはある日とんでもない雨女がやってきて、大雨で交通は断絶してホテルは孤立し、世界すら崩壊しそうになる。すべては湖の龍神の思し召すところで、その掌の上にある。

登場人物たちは追い詰められると、汗や涙や涎やときには吐瀉物すらもあらわにして、人間の中にある水分の存在を見せつける。外界に存在する水に浸透圧でおびき出されるように皮膚に囲まれた内部がじわじわはみ出してくる。特に言葉で攻められると攻められるほどに、みっともなく体液を滲出させるという異様な事態がたびたび登場する。

ホテルは、従業員たちは、どんどん流されていく。ホテルは最初経営不振で身売り寸前であるが、金持ちの太田老人の出資を受け一旦持ち直すが、また危うくなり売却が発表されるが、終盤では宿泊予約はたくさん入った安定した状態になっている。従業員たちは流れに身を任せるしかないが、せめてもの杭として、いつもと変わらぬ会話を繰り広げる。ホテルのありようを象徴するかのごとく謎の水の道が現れ消えてゆく。

ホテルゆえにいろいろな人が去来するのもまた、ひとつの流れだ。彼らは意味不明の言葉をぶつけてきたり、天地を揺るがす愛を語ったり、あられもない醜い欲をむき出しにしたり、あるいは芸を競い、美しきものを奪い合う。そこには熱量を持った言葉が発生し、つらなってテキストになり、文脈になり、場に漠と存在する水的なるものとせめぎあう。その水際の攻防が、物語を紡ぐ源泉となっているのだ。

テキストそのものもまた、流動性を持つ。時折、英単語が突如挿入され(登場人物がカタカナ語を英語的に発音した際にそうなるのか)、音とテキストの侵食性を感じさせる。たとえは「スカ爺」という奇妙な響きのあだ名はscuzzy(汚い、不潔の意)と読み替えるのではないかなどという邪推も生まれてくる。古語的な表現も、時折織り交ぜられる。「誰」を「たれ」と表記すると「垂れ」「滴れ」「タレ」など水気を帯びたイメージに変わってくるので不思議だ。

何度も何度も繰り返す読むうちに、太田老人の話していた意味不明の言葉も自然に読解でき自分でツッコミが入れられるようになるのではないか、とか、テキストのあちこちに横山ルンバが大野ホセアのワザに見抜いたような仕掛けがあるのではないかとか、気になってしょうがなくなる。実際に何度も読み込んでその境地に達する頃には、きっと彼岸にたどり着くにちがいない。
この記事の中でご紹介した本
湖畔の愛/新潮社
湖畔の愛
著 者:町田 康
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
このエントリーをはてなブックマークに追加
神田 法子 氏の関連記事
町田 康 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 日本文学 > 恋愛関連記事
恋愛の関連記事をもっと見る >