連 載 溝口健二と小津安二郎 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く56|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
2018年5月19日

連 載 溝口健二と小津安二郎 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く56

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鎌倉を訪れた際のドゥーシェ
JD 
 私が小津の映画の中で非常に興味深く感じているのは、水平性の撮り方です。手前に一つのイメージがあり、真ん中には別のイメージがある、そして奥にもまた別のイメージがある。これが一つの構図の中で行われています。要するに、一つの画面の中に、三つの水平面が存在しています。小津にとって、垂直性が問題となることは、さほどなかったと思います。もちろん垂直性も非常によく考えられています。小津における垂直性は、多くの場合、道において表現されています。それも大半は、若い女性がいる画面において見られます。そのような画面においての垂直性は、あたかも過ぎ去った時を告げるかのようにして表現されています。その一方で水平性は、いつも一時的な時を表しています。今日とは昨日であり、昨日は明日でもある。小津が軸を飛び超えることができるのには理由があります。彼の映画においては誰しもが、いくつもある水平線の軸となっているからです。つまり、小津とは視覚的に時間を扱い配置することのできた作家です。過去、現在、未来のような時はアクションの中にあるのではなく、映像の中にすでに配置されたものとして存在している。そのような映画を見るのは非常に面白い。

溝口は、小津と比較すると、位置関係を、より重要な問題としていました。溝口も多くの日本人の映画作家のように、家族についての作品を撮ってはいます。しかし、小津のように画面の中に存在する平面それ自体を問題にするのではなく、画面の構図というものに注力していました。父親が画面の手前にいるから、母親の位置はそれよりも少し後ろになる。画面の最前面には子供達が走り回っている。このようにして画面の中における位置関係が、映し出された空間における関係性を表しています。

溝口とは、器械の作家です。つまり、映画という表現方法に非常に合致した映画作家なのです。とある場所に出向き、カメラを置く。カメラのレンズが開かれる。つまり、視線が開かれる。目の前にある動きが、カメラを通じてスクリーンの上の動きとなる。そしてスクリーンに映写される映像の停止は、カメラの穴を閉じるということである。
HK 
 日本の古典的な構図ではありませんね。
JD 
 そうであるから、溝口は日本の観客との間には問題があったのだと思います。当時の日本人は心の底からは、溝口を好きになれていなかったはずです。
HK 
 多くのフィルムが失われるくらいでしたからね。
JD 
 多くの観客たちは、あっという間に溝口の存在を忘れてしまいました。最も重要な映画作家とは溝口であるにもかかわらず、多くの観客は小津の方を好んでいました。結局のところ、小津も同じくらい偉大な映画作家なので、それほど大きな問題ではありません。しかし、溝口が忘れられてしまったことに関しては、残念なことだったと思います。溝口は、映画を西洋化しながら、日本の文化を破壊することのできた作家です。力関係、社会、権力、金銭のような関係性を描きながら、それまでの日本社会を根本から考察することによって、いやが応なく変化させてしまっています。小津の映画にも金銭の問題はありますが、あたかも存在しないかのように出てきます。
HK 
 小津は当時の大衆映画のようなものでしたから。
JD 
 その通りです。それでも、隠されたかのようにして経済が存在してはいます。しかし、溝口においては、わかりやすい形で力関係が表現されています。溝口は、私の観点では、マルクス主義の映画作家です。力関係を見せる映画作家です。そのような関係性は何よりも社会的なものであり、社会における地位に関するものでもあり、金銭や権力の問題です。溝口の見せる力関係とは、必然的に、撮影されてしまう女性の姿にも現れています。女性たちは力関係の元に必然的に置かれています。溝口の女性たちは力関係の犠牲者たちです。

<次号へつづく>
〔聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ〕
2018年5月18日 新聞掲載(第3239号)
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